民族学

ヴァツワフ・シェロシェフスキとブロニスワフ・ピウスツキの北海道調査旅行

POWRÓT
活動

シェロシェフスキは、大いに期待していたピウスツキとの函館での出会いを次のように振り返っている。

「〔前略〕晴天の霹靂のごとく、ブロニスワフが姿を現した。彼は陽気で元気溌剌、国外用旅券を交付せよとのペテルブルグからの断乎たる命令が、サハリン島官吏の間にどれほどのパニックを惹起したかについて、面白おかしく物語る…。
「これはポーランドの陰謀だ、あなたはシェロシェフスキではなくて、偉大な革命家である私の弟ユゼフであり、しかも私を連れ戻しに来たのだ…という風に、彼らは固く信じて疑わなかったのですよ。けれども、彼らはもはや抗うことができなくなって、この通り私はここにいます…。サハリンの通訳も一緒に連れてきました。半分アイヌで、半分は日本人ですから、どちらの言葉もよく知っていますし、ロシア語すら話せます…。名前は太郎治…。すこぶる頼りがいのある男です…。あなたも私も日本語ができませんから、日本の当局者との対応では、必ずやすばらしい潤滑油になってくれますよ…。」」

(『毛深い人たちの間で』「群れ」出版社、1938年)

魅力的なのは、彼らがメモや録音、写真撮影だけでなく、アイヌの人たちを撮影していることである。残念ながら、そのフィルムはパリに送られた後、紛失してしまい、フィルムのことは何も分からない。もしかしたら将来、研究者がシェロシェフスキの失われたフィルムを発見するかもしれない。

二人の調査者は、日露関係の緊張から身の安全が懸念されたので、北東海岸のアイヌの場所に到達するという目的を達成する前に、残念ながら任務を終えなければならなかった。彼らにはロシア領事館から島を離れるようにとの緊急の指令があった。

本の表紙。

ピウスツキがサハリンに戻ったのは、1903年9月24日のことである。彼は知識を深めえただけでなく、シェロシェフスキが人体測定のための機材を自分に残してくれたので、大変喜んだ。従ってそれ以来、ピウスツキは最新の工学機器を携えて自分の任務を継続した。9月に研究者たちの日本遠征に関する最初の報告が、ロシアの定期刊行物『アムール地方』に掲載された。

コルサコフに落ち着いた彼は、まず科学アカデミー博物館のために新たに収集した工芸品を「ヤロスラーヴリ号」で、義勇艦隊のシーズン最後の航海で送り出した。そしてさらに収集したテキストの編集を行なった。彼は、アイヌ語の方言が北海道内でも大きく異なることに気づいた。北海道のアイヌ語方言を知っているサハリンのアイヌ人はほとんどおらず、ピウスツキはどうしようもないこともあった。にもかかわらず、彼は日本列島の異なる地域の語彙の違いを一覧表にまとめた。

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