民族学

アイヌ人

POWRÓT
活動

アイヌ人は、ピウスツキの強い関心を呼び起こした民族である。

実際、ピウスツキはアイヌ人の言語と文化に関する先駆的な研究で最も知られている。 1903年生まれの息子の助蔵と1905 年生まれの娘のキヨという、彼の唯一の子供たちの将来の母と出会ったのは、アイヌ人たちの間であった。伝統的な婚礼の儀式で結ばれたチュフサンマ(「ツフサンマ」、「ツフサンマフ」、日本語の文献では「シンキンチョウ」とも記されている)は、ブロニスワフより十数歳若く、ピウスツキが1905年に一緒に母国へ戻ろうとしたにもかかわらず、サハリンを離れることはなかった。

ピウスツキは、もう一人の流刑囚レフ・J・シュテルンベルグからアイヌ人の研究を始めるように勧められた。ピウスツキはニヴフ(当時は「ギリヤーク」と呼ばれていた)人を研究した経験を以前にシュテルンベルグと共有していた。アイヌは当時も今も、大きな謎である。それは、ツングース(現在の呼称は「エヴェンキ」)人と同族のニヴフ人やオロッコ(現在の呼称は「ウイルタ」)人とは明らかに異なる、より小さな神秘的な民族だった。アイヌは身体的にはコーカサス人やアウストロネシア人に似ていた。彼らは本来サハリンの西海岸と東海岸双方の南部のみに居住し、北部と近隣の千島列島には小集団で住んでいた。アイヌ人はツングース人や満州人などの地元住民とは異なっていたため、多くの研究者が彼らを調査するようになった。彼らはロシア人にとっても興味深い存在だった。サハリンのアイヌは、南サハリン周辺の海域で魚や海の生物を捕獲し、ワカメを収穫するロシアと日本双方の漁師と密接に協力し、かなりの技術を示したからだ。サハリンや千島列島のほか、彼らが日本の領土である北海道にも住んでいたことは広く知られていた。

ピウスツキは、アイヌ語の静かで柔らかく穏やかで音楽的な話し方と、他の民族の力強く荒々しい発音とは一風変わった対照をなす、高貴な身振りに魅了されたと書いている。彼は 1912 年に、アイヌとの出会いについて次のように書いている。

「私は十八年以上にわたり極東に滞在したが、それは自ら望んだものでは全くなかった。私は、つねに故郷の地に戻ることを願いながら、自分が流刑者であり、捕われの身であり、愛するものすべてから引き裂かれているという悲しみからなんとか逃れようとした。私がこの国を愛する唯一の人々、ここを流刑植民地とした者たちからは厭われているが、太古からの自分たちの居住地であるこの国を愛するサハリンの原住民たちに、私が心惹かれるようになっていったのも当然のことといえよう。」

(『アイヌの言語とフォークロア研究資料』クラクフ、1912年、序文からの抜粋)

ピウスツキはサハリン流刑の最初の時期にすでにアイヌ人と接触していたが、アイヌ人の言語、文化、風習に関する研究の大部分は1902 年から1905 年の間に行った。それは、彼が既に刑期を終え、ウラジオストクの博物館で資料管理人として働いた後、ロシア帝室科学アカデミーの要請により、アイヌ人とオロッコ(ウイルタ)人を調査する任務で再びサハリンへと赴いた時期である。さらに1903 年の夏、彼はヴァツワフ・シェロシェフスキ(調査団長)と共に日本の北海道に出かけて、そこでアイヌ人を一緒に調査した。シェロシェフスキは人類学者、ピウスツキは言語と精神文化の研究者として。シェロシェフスキとの任務を完了した後、ピウスツキは日露戦争の勃発とアジアからヨーロッパへの出発まで調査を続行した。ポーランドに戻った後、彼は持ち帰った資料に取り組み、ポーランドの学界でそれらへの関心を高めようとした。

ピウスツキがアイヌ人たちと会って学術資料を収集した最後の機会は、1910 年にロンドンで開催された日英博覧会だった。その時ピウスツキは、アイヌから約50編の民話やその他の民間伝承データを収集することができた。アイヌは博覧会をより魅力的にするために、イギリスに連れてこられたのである。シェロシェフスキによると、ピウスツキは流刑中に、「アイヌ語10,000語、ギリヤーク語6,000語、オロッコ語2,000語、数多くの民話、歌謡、伝説、習俗、大量の写真、そして世界で唯一の蓄音機の蝋管100本のコレクションを収集した」という。

彼がガリツィアに戻った後に行った仕事の成果は、多くの困難を伴いつつも、優れた著作を出版したことだった。それは、『アイヌの言語とフォークロア研究資料』ブロニスワフ・ピウスツキが収集・出版準備、J. ロズヴァドフスキ監修、と題され、1912年9月にクラクフの学芸アカデミーによって英語で出版された。今日に至るまで、本書は世界のアイヌ人研究の基礎となる著作の一つとされている。

この著作はpolona.plでデジタルで閲覧できる。また印刷物として以下のタイトルの出版物で入手できる。『ブロニスワフ・ピウスツキ著作集』第2巻、アルフレッド・F・マイェヴィチ編、「ムートン・デ・グリュイター」社、ベルリン・ニューヨーク、1998 年。

ピウスツキの功績を知る最良の方法は、彼がサハリン南部の東西両岸に沿って行った旅を想像することだ—海と川を小舟で、馬と馬車に乗って、徒歩で、そして一組のトナカイが引く橇に乗って…。彼はどこへ行ってもメモを取り、時に写真を撮り、エジソンの蓄音機を使って蝋管に話を録音した。

このようにして、私たちはブロニスワフ・ピウスツキがアイヌ人やオロッコ人を調査していた時期の旅路を再現している。

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