民族学

タライカ出身のアイヌの話

POWRÓT
活動

1903年1月、ピウスツキはシシラトカから聞いたアイヌ人とオロッコ人の戦いの話を書き留めた。これは、非情な戦争の連続的な局面を描いた、並外れた物語である。その中で、弓矢の攻撃を素手で防御する方法を学ぶという項目には驚かされる。この物語の風土は、『イーリアス』の風土に類似している。

以下はその抜粋である。

「あるコタン(アイヌ語で「村」の意)に6人のニシパ(金持ち)が住んでいた。そのうちの一人がオロッコ人の領地に迷い込み、オロッコの小屋に入って行った。その年は鹿がたくさんいた。裕福なアイヌがオロッコの小屋に入って、火のそばに座ると、オロッコたちは不純物で汚れた鹿の胃袋を食べるようにとくれた。アイヌの富豪は〔オロッコがそれを特別な珍味と考え、このような方法で礼遇されたことが分からずに—ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカ〕、食べるのを拒否した。そこで彼はタライカに戻り、他の5人の金持ちにこの出来事を話した。

その後、全員がオロッコの小屋へ行き、その住人を男も女も例外なく虐殺した。ただ一人、少年が逃げ延びた。彼は放牧されていた鹿の一頭に跨ると、それに乗ってティミ川の河口近くにあるオロッコのトゥリサ(アイヌ語で「ウネイ」と言う)村に逃げ込んだ。そこで彼はオロッコに事の次第を話した。するとオロッコはたくさんの弓とたくさんの矢を用意した。

冬が来た。タランというコタンで、多くの者が湖の氷に穴をあけて釣りに夢中になっていると、突然鹿の群れが走ってきた。この鹿の群れには、矢をたくさん詰めた矢筒を背中に括りつけたオロッコが乗っていた。オロッコたちはアイヌのすぐそばまで来て、矢を射かけた。アイヌは漁に出ていて、漁具以外は何も持っていなかったので、オロッコたちはたちまちのうちにアイヌを皆殺しにした。ただ一人、漁具を持っていないアイヌがタライカに向かって走り出した。鹿に乗ったオロッコたちはこのアイヌを追いかけ始めたが、追いつくことはできなかった。

タラン・コタンとティミ川の河口のちょうど中間地点に、ある人物の墓があった。逃げ惑うアイヌは墓の蓋を開け、そこからかつて人々が亡き人のために墓に置いていったという、骨の裏打ちで補強した弓と、そこに転がっていた矢を2本取り出した。弦を直して矢をつがえ、オロッコたちが近づいてくるのを待った。

オロッコが近づいてきた。アイヌが弓の弦を引くと、弦が切れてしまった…。彼はもうどうすることもできなくなった。オロッコたちは弓で彼を射抜き、殺してしまった。それから彼らはポロナイ川との合流点に近い、シスカ川のシスカ・コタンに行った。もう暗くなっていた。シスカの住民は壕に住んでいた。オロッコたちは乾いた草をたくさん集めて火をつけ、壕の中に投げ入れた。壕はみるみるうちに燃えていった。オロッコたちは煙突を覆っていた天蓋を引き剥がして、煙突の隙間から燃える草を投げ入れもした。こうしてオロッコは全村を焼き払い、誰一人生き残ることはできなかった。それからオロッコたちはタライカに移動した。タライカでは6人の金持ちのアイヌが鎧を着て、昼も夜も番をしていた。そこにオロッコがやってきたが、6人のニシパが戦いに備えて鎧を身に着けているのを見ると、とても怖くなって、湖の氷上を渡って逃げ出した。オロッコは逃げ去って、タライカの隣にあるノコロ・コタンにたどり着くと、そこで村民を皆殺しにした。その後、彼らはタン・アトゥイ(アイヌ語で「忍耐湾」のこと—A. マイェヴィチ注)沿岸を進み、カレレ(アイヌ語で「忍耐岬以北のオホーツク海」のこと—A. マイェヴィチ注)に至った。アイヌたちはそこでも壕に住んでいた。そこでオロッコたちは草に火をつけ、それを壕の中に投げ込んで、すべてを燃やしてしまった。そしてオロッコたちは自分たちにとって役立ちそうな女たちを連れて、自分たちの家へ拉致していった。そこで女たちと結婚して、子供をもうけた。

オロッコがカレレ地区のアイヌの女性を戦利品として拉致し、子供をもうけて以来、今やアイヌはオロッコと親戚関係にある。現在、この二つの民族間の敵対関係はなくなった。〔中略〕

すべての出来事の後、タライカ出身の2人のアイヌが戦い方を学んだ。一人は弓を手に持ち、もう一人は離れたところに立ち、多くの者が弓を持って一列に並んだ。彼らは弓に「空の」矢をつがえた。少し離れたところに立っている男の合図で、弓を持ったアイヌ全員がこれらの〔空の〕矢をその男に向けて放った。その矢は一本も男に届かず、彼はすべての矢を避け、同時に多くの矢を両手で受け止めた。彼は自分に向かって放たれた、たくさんの矢のうち一本も当たらないように逃れたのである。

このようなことがあったので、アイヌたちは、今度は鋭い金属の先端をつけた本物の矢を使った。このアイヌは、これらたくさんの矢のうち一本も自分に当たらないように逃れ、また同時にたくさんの矢を自分の両手で受け止めた。〔中略〕

やがてタライカ・コタンには、この種の戦いに強いアイヌが2人現れ、他の村人もみな強くなって、戦いに備えるようになった。これでオロッコの猛攻を恐れることはなくなった。もしオロッコが先に戦争を仕掛けてきたら、彼らは喜んでオロッコと戦うだろう。しかしアイヌはオロッコによる開戦を今日までこうして待っているのだが、何らかの理由でオロッコは戦いを始めようとしない。昔はアイヌがオロッコによく危害を加えたので、後でオロッコに戦いで勝たせなければならなかった。昔はそうだったが、今はアイヌが先に戦争を始めることはできない。」

この伝説には戦闘用の鎧のことが書かれている。アイヌの富裕層は日本の鎧を「ソゾク」とか「ヨロイ」とか言って持っていたが、自分たちで作った鎧も使っていた。彼らは縄や網を固く編んで粘土で厚く覆ったものを「クサリ」と呼んでいた。また鮭の皮に粘土を塗って作った鎧を「ケプン・ハユフペ」と呼んでいた。

(アルフレッド・マイェヴィチ『アイヌの歴史と伝説』からの抜粋に基づく。)

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