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ヤン・ピウスツキの遺体をポーランドに戻す
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ポーランド共和国政府と東部ポーランド人援助財団が主導して、死後70年以上を経てヤン・ピウスツキの遺体がワルシャワの旧ポボンスキ墓地にあるピウスツキ家の家族の墓に埋葬されました。 そして2024年1月24日には聖チャールズ・ボロメオ教会で厳粛なミサが執り行われました。墓には彼の家族、首相、東部ポーランド人援助財団、国立記憶研究所、スレユヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館からの花輪と花束が献花されました。
ブロニスワフ・ピウスツキの弟ヤン・ピウスツキは1876年1月15日にヴィリニュスで生まれました。彼は第一中学校に通い最終的にリパァブァで高校の卒業試験に合格しました。その後モスクワ大学で学びましたがポーランドの学生組織に参加したため退学処分になりました。しかし必要に迫られてカザンの地方大学で法学部を卒業しました。1909年から1915年にかけてヴィリニュス市議会の主任会計士で、市内の上下水道システムの建設のために英国で地方債ローンを獲得するプロセスに参加しました。また3年後にはヴィリニュスの臨時統治委員会のメンバーとなり、その後独立を取り戻したポーランドでワルシャワの労働社会福祉省の役人になりました。1920年からはヴィリニュス地方裁判所の判事を務めその後控訴裁判所の判事を務めました。1922年には東部国境地帯の国家連合のメンバーとなり、ヴィリニュス地域とポーランド共和国の統一に関する決議を可決した中央リトアニア議会の議員になりました。また1928年から1931年にかけては政府との協力のための超党派ブロックBBWRの国会議員でした。1930年3月にカジミェシュ・バルテルの第5次政権が辞任した後にヤン・ピウスツキは首相に任命されましたが、ワレリー・スワヴェクを支持して辞任しました。その翌年ヤン・ピウスツキは下院副議長を務めました。そして1931年5月27日から1932年9月6日までアレクサンデル・プリストル政権の財務大臣を務め、1932年から1937年にかけてはポーランド銀行副総裁を務めました。世界経済危機の最中に財務大臣を彼に任せたのは、国家と市民の貯蓄と財政を使って破壊インフレ政策を実施することに反対するユゼフ・ピウスツキの意図的な動きでした。元帥の弟であるヤン・ピウスツキは国家がインフレ抑制政策をとらないことを国民に保証する存在だったのです。ユリアン・トゥヴィムがコメディショー「Qui pro quo誤解」の有名なエピグラム「兄弟」を書いたのはその時でした。
兄弟は兄弟を呼んだ。そして兄弟は兄弟に言った:
「秩序をもたらすために、金融をやってもらおう」。
弟は突然椅子から転げ落ち、うめき声をあげました。金融か?」
「そうだ」と3つのソリティアを終わらせた兄は弟に言った。
しかし、弟は断らず、それどころか、きびきびとした顔を見せ
そして秩序を作り始めるためにリマルスカ通りに行った。
そして兄は、とてもうれしくて、弟が去るときにつぶやきました。
「弟は、いい兄弟だ。だって僕なら引き受けないからだ。」
さらにヤン・ピウスツキは東部領土開発協会当局のメンバーとして、また国民・国家連合の創設者として活動しました。彼は「国家への傑出した貢献に対して」ポロニア・レスティトゥータ勲章のグランドリボン、ポーランド・レスティトゥータ勲章の司令官十字章、独立十字章を授与されています。
1939年9月17日にソ連がポーランドを侵略した後に彼はヴィリニュスでソビエトの内務人民委員部NKWDに逮捕されモスクワのルビャンカに追放されました。それから1941年夏にシコルスキ・マイスキ協定により釈放された後は刑務所や強制収容所から釈放された何千人ものポーランド人追放者・強制退去者と共に飢餓と貧困に苦しみました。またソ連からの疎開後はそこで同胞を組織し支援する人物として知られていました。そしてイギリスに到着した後はポーランド戦争移民の独立活動に加わりました。その後も彼は亡命生活を続け1950年12月21日にペンリー(ウェールズ)のポーランド病院で心臓発作により亡くなりました。そしてレクサムの墓地に埋葬され70年以上を経てポーランドの家族の墓に眠りました。
グジェゴシュ・ノヴィク、ヤン・ピウスツキの遺灰をポーランドに戻す、スレヨヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館の定期刊行物に基づいて
2024年1月〜3月、4-5ページ