社会的関係

女性解放

POWRÓT
活動

ブロニスワフ・ピウスツキにとって、公的な活動を行っている日本人女性と東京で会ったことは重要だった。彼は女性解放の問題に非常に興味を持っていた。

この点で決定的に重要だったのは、福田英子との出会いである。

福田英子

福田は日本の女性解放運動と日本の社会主義の歴史において最も重要な人物の一人だった。彼女は武家の出で、幼い頃から自立し、家庭で西洋の教育を含めた優れた教育を受け、ジャンヌ・ダルクの肖像は幼少期の偶像だった。福田は働く母親の子供たちのための学校を設立し、公民権運動に参加した。彼女はすぐに、既存の政治体制(中国および朝鮮との関係を含む)を転覆させる活動に関与するようになり、朝鮮の革命家たちに輸送される爆発物や武器の収集を手伝った。自分が関与した陰謀が政府によって探知された後、福田は有罪判決を受けたが、すぐに赦免された。その後、彼女は女性のための教育活動に携わり、女性のための最初の専門学校の一つを設立した。福田が東京近郊の谷中村(今では東京の一地区であり、建物の伝統的な特徴と小さな寺院や古い墓地がたくさんあるため、非常に魅力的である)の住民を強制移住から守ったことは有名である.

福田は、ブロニスワフ・ピウスツキの知己でもあった社会主義者・堺利彦と親交があった。彼女は『平民新聞』の寄稿家だった。1907年、彼女は女性向けの社会主義雑誌『世界婦人』を創刊し、ピウスツキと二葉亭四迷のおかげで、日本で初めてポーランド文学の翻訳を発表した(ロシア語訳から日本語への翻訳)。

福田英子。

日本の女流音楽家 ピアニストの橘糸重とソプラノ歌手の藤井環

東京に到着して間もなく、ブロニスワフ・ピウスツキは、1905年の記録的な寒波の年に東北地方を襲った凶作の犠牲者と、飢饉の犠牲者のために催された、慈善音楽会に出席した。当時、多くの支援キャンペーンが開始され、その中にはこの地方出身の大学生が組織した、東京で最も古い芸術学校である東京音楽学校での十数回の音楽会の一つがあった。この音楽会は2月11日に開催され、そのレパートリーは日本の伝統音楽とヨーロッパのクラシック曲で構成されていた。ピウスツキは、ロシアの雑誌『極東の自然と人々』(第8号、1906年3月9日)でこのイベントについて述べている。このイベントの興味深い情報は、音楽会の第一部で常磐津、長唄、三味線音楽などのジャンルの作品が演奏されたことだ。それは、物語やドラマで知られる登場人物の冒険を物語る、語り歌の形式だった。岸澤文字兵衛、岸澤八百八、芳村伊十郎、杵屋六左衛門など、当時伝統歌舞伎の優れた芸術家とみなされていた人々が、この音楽会に出演した。

これは、音楽会での岸澤文字兵衛の歌と岸澤八百八の伴奏の模様である(東京の歌舞伎座のシーン)

当時憲政党の党首で、後に日本の首相となった大隈重信が演説し、ピウスツキは彼と会う機会を得た。

しかしながら、ピウスツキが特に気に入ったのは、2人の女流音楽家だった。まず有名なピアニストの橘糸重がショパンのバラードを演奏した。

その後、藤井環が以下の数曲を歌った。当時日本で絶大な人気を博していたロベルト・フランツ作曲、アゼルバイジャンの詩人ミルザ・シャフィ作詞、フリードリヒ・ボーデンシュテット訳の「ばらは嘆いた」、マックス・ワルダウ作詞、ロベルト・フランツ作曲の「ある墓地」、バッハ(ヨハン・セバスティアンまたはその子ヴィルヘルム・フリードマン)作曲のアリア「汝が心われにあたえずや」。

大隈重信。

ピウスツキはこの音楽会について次のように書いている。

「この演奏会に行って、日本人が日本の民族音楽とはまったく異なるわがヨーロッパの音楽を理解する資質を備えており、またそれを伝える能力があると私は確信した。橘女史は優雅に心をこめてショパンの「バラード」をピアノで演奏した。藤井女史はバッハとフランツとブレチのロマンスを数曲歌った際に、見事に響く快い声、ソプラノの力と優しさのすべてを発揮した。もし彼女がヨーロッパ行きを承諾すれば、彼女はかの地で自分の歌によって人気を博し、世間から広く認められるだろうにと私は確信する。」

ピウスツキは音楽を心から愛していた。何しろ私たちは、彼が若い頃にピアノの練習をし、サハリンでは彼自身が女子生徒に音楽を教え、…自分でバイオリンを弾くことを夢見ていたことを覚えているのだから。

藤井に関する彼の意見はきわめて正しかった。将来、このアーティストはヨーロッパの舞台で成功を収めることになる。

藤井環

出身校である上野の音楽学校声楽科の著名なアーティストであり、教育者でもある藤井(旧姓・柴田)環は、華やかな人物として非常に人気があった。C. W. グルックの『オルフェとエウリディーチェ』のエウリディーチェ役でデビュー。後年、三浦(二度目の夫の名前)環の名前で出演し、1915年のロンドン・オペラハウス、その後ベルリン、ボストン、その他多くの都市で、20年間にわたる長い経歴で2,000回以上の公演に蝶々夫人役で出演して有名になった。

三浦環(藤井環)

橘糸重

その演奏がピウスツキに強い印象を与えたピアニストは、当時有名なピアニストであり、音楽学校の教師でもあった。

彼女は感受性の豊かな女性で、短歌を創作する歌人でもあり、「心の花」の会員でもあった。そしてかつての音楽学校の生徒で、当時著名な小説家・島崎藤村を含む作家たちと親交があった。藤村の作品のいくつかは、橘をモデルにした女性アーティストの登場人物を特徴としている。

作家や音楽家の間で幅広い友人グループがいたにもかかわらず、橘は生涯独身を通した。

ブロニスワフ・ピウスツキが1906年2月11日の音楽会で聞いた曲は、おそらく「バラード第一番ト短調」だっただろう。

橘糸重

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