社会的関係

『ヴォーリャ(自由)』

POWRÓT
活動

来日後のピウスツキが出会ったコミュニティは、ラッセルや、社会革命党の革命新聞『ヴォーリャ』の発行人たち、そしてロシア語を学んだ日本人卒業生たちを中心とするものだった。

『ヴォーリャ』の発行人の一人がボリス・D・オルジフで、ブロニスワフはまだウラジオストクにいた時に彼と出会った。オルジフは「人民の意志」党の活動家で、無期流刑の判決を受けた、元シュリッセルブルグ要塞の囚人だが、ウラジオストクでは果樹栽培と社会革命党の仕事に従事していた。

ボリス・D・オルジフ

二人目の発行人であり、当初は編集長だったのがV. K. ヴァデーツキーである。彼は沿海州(アムール川沿い)の反乱軍ノヴォキエフ駐屯地の元大尉で、ロシアからの逃亡者だった。ラッセルとともにこれら3人はいわゆる「長崎グループ」を構成した。彼らは『ヴォーリャ』紙を発行して極東の客船の船員と接触し、彼らを通じて、ロシア領事館と日本警察の厳しい監視下にあったウラジオストクと連絡を取った。ラッセルは俘虜収容所にいるロシア人に対して宣伝工作を行い、彼らを再武装させて、シベリアでのツァーリとの戦いに送り込むつもりだったが、それは失敗に終わった。しかし、しばらくしてオルジフとヴァデーツキーの間に意見の齟齬が生じ、やがて編集者たちは袂を分かった。ヴァデーツキーはアメリカに渡り、後にピウスツキと再会するが、オルジフは長崎に留まった。

この新聞は1907年末まで発行され、その後ピウスツキは編集者を、東京の大学生の間で活動している中国人社会主義者と協力させた。このことはとりわけ重要である。『ヴォーリャ』の編集者が在日中国人活動家や日本人社会主義者と絶えず接触したおかげで、『ヴォーリャ』も中国人や日本人の著者の記事を掲載するようになり、ロシアの社会主義者がこれらの国々の社会状況や革命運動について認識するようになったからだ。

ピウスツキ自身はさらに数年間、ラッセルと文通を続けた。ピウスツキはアメリカからヨーロッパへの旅の途中やクラクフから手紙を書き、『労働者』、『時』、『アメリカ・エコー』などの定期刊行物やユダヤの新聞『前進』(いずれもアメリカで発行)のことをラッセルに知らせ、その編集局の住所を知らせた。これらの書簡から、ピウスツキは純然たる党の問題よりも、移民の状況や彼らの新生活を整えるための手助けができるかどうかを、主として考えていたことが分かる。その後、ピウスツキはガリツィアからラッセルに書簡を送っている。

ピウスツキが編集を手伝っていた1906年には、日本の『東京日日新聞』に亡命ロシア人に関する記事が掲載され、ラッセルが発行していた『日本とロシア』紙にはヴァデーツキー、オルジフと並んでピウスツキの写真が掲載された(1906年1月25日の第16号)。

1906年1月25日の『日本とロシア』第16号に掲載されたブロニスワフ・ピウスツキの写真。

ピウスツキは、この写真が非合法とされる亡命新聞に掲載されたために、ロシアに占領されたポーランドに帰国すれば不利益を被るであろうことを強く懸念していた。しかも彼は、日本を発つまで『ヴォーリャ』の編集部に預けておいたパスポートを回収できなかったのだから、なおさらである。後の点で彼はまったく正しかった。1914年の開戦後、彼はロシアのパスポートがないためにガリツィアを離れることができず、オーストリアのパスポートを申請しなければならなかったが、そのために多大の労力を費やしたからである。

Zobacz również
箱館屋

ブロニスワフ・ピウス ...