社会的関係

ブロニスワフ・ピウスツキの日本との接触

POWRÓT
活動

ブロニスワフ・ピウスツキは4回来日した。最初の訪問では、1902年8月から9月にかけて 3 週間、北海道の港町である函館に滞在し、サハリンで収集した民族学資料の発送を手配した。彼は、サハリンや日本などで事業を行っていたエネルギッシュなビジネスマン、ジョージ・デンビーが所有する大きな屋敷に滞在した。サハリンからウラジオストクへの輸送ラインが日本を経由していたことは驚きかもしれないが、それが最も速く安全な方法だったのである。

ピウスツキの 2 回目の来日は、1903年7月から10月にかけてだった。アイヌ人調査旅行の際に、再び北海道を訪れたのである。それは、ロシア帝室地理学協会とロシア科学アカデミーによって送り出された派遣団の団長ヴァツワフ・シェロシェフスキの尽力により行われた。函館での短期滞在の後、二人の研究者はアイヌの村や集落を巡るかなり長い旅に出た。彼らが最も長く滞在したのは、太平洋岸に位置する日本人とアイヌ人混住の村、白老だった。この非常に上首尾に終わった旅行は、シェロシェフスキの報告記『毛深い人たちの間で』で見事に描き出されている。旅行は9月19日に函館で終了し、そこからピウスツキは通訳兼補助員と共にサハリンに戻った。シェロシェフスキの方は東京、神戸、長崎を経由して大陸に向かい、朝鮮、中国、セイロン、エジプト、イタリアを経由してワルシャワに戻った。

ピウスツキの 3 回目の来日は、日露戦争の終結直後のことで、彼は日本とアメリカを経由して極東を船で離れることを決意した。ブロニスワフが日本に来たのは1905年10月である。これは、交戦国がポーツマス講和条約に調印した一カ月後のことで、ロシアはサハリンの半分を日本に奪われ、ロシア人をこの地域から避難させることを余儀なくされた。ピウスツキは短期間、一カ月後に大陸に戻るべく、最初に神戸に来た。シベリアを経由して鉄道で母国に戻ろうと考えていた彼は、ポーランドへ帰る時にアイヌ家族を同伴するために、主にアイ村へ行った。しかし、妻の後見人であるバフンケの強い抵抗により、彼はそうすることができなかった。バフンケは、ブロニスワフのアイヌ妻であるチュフサンマとその子供たち(彼らにはすでに息子の助蔵と、間もなく生まれる娘のキヨがいた)が不確実な未来に直面し、妊娠中の女性を連れ去ることで、ピウスツキは共同体に不幸をもたらす可能性がある、と信じていたのである。

ピウスツキはウラジオストクに行って、革命の混乱に巻き込まれ、そこで多くの知り合いの活動家に会った。その後、アムール川河口のナナイ(旧称ゴリド)人が住む村に足を運んだ。この地で彼は、アムール地方研究協会のために収集した民族学資料を以前に発送したことがあった。ピウスツキはまた、ハバロフスクを訪問することができた。そしてそこで市の住民集会に出席し、混乱の時代に人々が真っ当な仕事を見つけるのを助けてくれる労働局を設立することを提案した。状況はますます不安定になりつつあった。その結果、ピウスツキは親友のマトヴェーエフが日本に行くことを利用して、彼とその11歳の娘ゾーヤと一緒に出発した。

ピウスツキは 1905 年 11 月に完全にサハリンを離れた。しかし、彼はロシア本土に行くつもりはなく、日本、アメリカ、ヨーロッパの間の海運の接続を利用しようとした。 1905年のこの4回目の滞在は7カ月にも及び、信じられないほど多忙を極めた。ピウスツキは多くの日本人だけでなく、亡命ロシア人や、東京に留学している中国人の若者たちにも会った。日本での彼の接触の対象は、いくつかのグループに分けることができる。即ち、ロシアの革命的社会主義者、日本と中国の社会主義者、民族学者、作家である。二葉亭四迷(長谷川辰之助、1864–1909)との親交と協力は、特別な役割を果たした。

1905年9月5日の日露講和条約の写真、日本の外務省の史料より。

1906年1月初旬、ピウスツキは東京に到着し、1月6日頃、『報知新聞』の記者のインタビューを受けた(記事「浦塩よりの二珍客」『報知新聞』1 月 7 日)。転載、『北海タイムス』1月10日。彼は 築地のセントラル・ホテルに住んでいた。

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