社会的関係
日本のロシア研究者と正教の聖職者
活動
1906年に日本に滞在した当初からピウスツキは、ロシア人亡命革命家の運動にとって重要な拠り所であった日本のロシア語翻訳者と通訳と会った。ピウスツキにとって日本語は、完全に外国語という訳ではなかった。サハリン南部に住むアイヌの多くが日本語を話していたし、3年前にシェロシェフスキと一緒に北海道ヘ調査旅行に行った時、彼はアイヌ人と日本人のハーフの子孫である千徳太郎治の支援を受け、二人はアイヌ語・ロシア語と日本語・ロシア語の小辞典を使っていたからだ。ピウスツキは日本語に慣れていたものの、日本に長く滞在するつもりはなかったので、日本語を習得せず、通訳の助けを借りていた。
ピウスツキは東京で何人かの「プロの」通訳に会った。一人目は松田衛で、ピウスツキは彼の家に滞在していた。その後すぐに、彼は素晴らしい東京外国語学校(ちなみに、後の東京外国語大学は現在ポーランド学科を有する日本で唯一の大学である)のロシア語科の鈴木於兎平教授と連絡を取った。鈴木は東京で諸事を手配する手伝いとして、教え子の島田正靖をピウスツキに推薦した。ピウスツキはまた、大井包高と連絡を取った。この人物は、かつてロシアで法律学を学び、姫路の俘虜収容所で通訳をつとめたロシア語翻訳家である。この接触は、俘虜収容所の通訳との他の会見と同様に、ロマン・ドモフスキとユゼフ・ピウスツキの一年前の日本訪問の情報を彼にもたらした可能性がある。これは絶対に確実というわけではないが、考慮すべき興味深い可能性である。
俘虜収容所で一時的に雇用された日本人通訳の何人かは、東京のロシア正教会の神学校と関わりを持つグループから派遣されていた。当時、東京のロシア正教会は、後に聖人の列に加えられ、「日本の使徒」と呼ばれることもあった、カリスマ的なニコライ・カサートキン主教が率いていた。他の多くのロシア人と同じように彼も、ロシア領事館付きの司祭として派遣された函館から、この国での使命を開始した。すでに掌院として東京に移った後、彼は東京の中心部に美しいビザンチン様式の聖復活大聖堂と神学校を建設した。大聖堂は著名な英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計施工の下に建設された。
ニコライ主教は聖書といくつかの典礼テキストを日本語に翻訳し、神学校の生徒に翻訳作業を続けることを奨励した。ピウスツキに協力した通訳と翻訳者のほとんどは、そのグループの出身である。
当時ロシアの社会主義者を支援していた上田将、軍司義雄、高井万亀尾の3人の翻訳家は、全員神学校の生徒だった。彼らはそれぞれ、西日本のいくつかの都市にあるさまざまな収容所でロシア人俘虜と会話もしていたため、ピウスツキは確実に俘虜、特にポーランド人の状況や見解、士気について知ることができた。これら3人の翻訳家は、「長崎グループ」の定期刊行物『ヴォーリャ(自由)』に協力していた。彼らはまた、定期刊行物『光』を中心に集まった日本の社会主義者との接触を支援した。これは重要な点である。日本では社会主義はキリスト教の世界観の土壌の上に、プロテスタントと正教会双方の宣教師の周囲で成長したのである。
実際、ピウスツキはその一部とより長く連絡を取り合っていた。例えば、軍司は岡本柳之助の『日露交渉北海道史稿』からの抜粋を翻訳してくれた。ピウスツキは1908年にサハリンの先住民に関する文章を書くためにそれを必要としており、その文章は1909年にロシア語とドイツ語で発表された。
3 人の翻訳家のうち二人目の上田将は、大聖堂で「マトフェイ」として洗礼を受け、その神学校を卒業した後、プロの翻訳家として働き、日露会話集を出版した。ピウスツキは1906年1月下旬に彼と会い、3 月には上田が送った品物の支払いを待っていることを、『ヴォーリャ』編集部宛の手紙に書いている。上田は、東京の正教会、亡命ロシア人、中国人の活動家らと関係のある多くの人々を知っていた。1906年に上田がピウスツキに送った手紙が保存されており、上田は、箱館屋でブロニスワフの噂を頻繁にしていることなど、東京の最新のニュースを伝えている。1907年の別の葉書では、上田はブロニスワフから手紙を受け取ったこと、別の共通のロシア人の友人(ポドパーフ)が家族と一緒に東京に住んでいること、そして『ジャパン・タイムズ』と社会主義者の新聞をピウスツキのクラクフの居住地に送ったことを伝えている。
上田の協力のおかげで、ピウスツキは日本の雑誌『世界』に、ロシア国外では最初の学術的研究を発表することができた。これは、アイヌの人々とその状況に関する2部構成の論文で、サハリンで撮影した写真が添えられている。編集者たちは、その南部が一年間日本の統治下にあったサハリンに関するニュースに関心を持っていた。ピウスツキはまた、日本を離れた後も上田と文通をしていた。