社会的関係

在日ロシア人社会主義者たち

POWRÓT
活動

ピウスツキが日本の港町・神戸で最初に出会った重要人物は、ロシアからアメリカに亡命したニコライ・K・ラッセル(正確にはスジローフスキー、1850–1930)で、これは実に興味深い人物だった。スジローフスキーは医師としての教育を受け、ロンドンとブカレストで学び、そこで「ニコライ・ラッセル」という名を使い始めて革命活動を展開した。しばらくの間ブルガリアとルーマニア(オスマン帝国内)で活動し、アメリカに逃れて帰化した後、ハワイに居を構えた。そこで彼は独立社会主義を掲げた政党を設立した。彼は上院議員になり、ハイチ人の名前「カウカ・ルキニ」を使って、上院議長まで務めた。

ラッセルは、1905年、社会革命党(いわゆる「エスエル」)によって日本に派遣され、日本の収容所に収容されていたロシア人俘虜(その数は7万2千人以上)の間で革命的な扇動を行った。俘虜の中にはポーランド人もいて、ロシア人革命家だけでなく、ポーランド人の活動家も彼らに対して政治的関心を抱いていた。ラッセルは陸軍大臣から許可すら得て、四国の松山にいるロシア人、ポーランド人の俘虜を訪ねて、主に後者と直接話し合った。

ラッセル(スジローフスキー)の写真。

その一年前(1904年6月と7月)には、ロマン・ドモフスキとユゼフ・ピウスツキが二つの別々に準備した任務を携えて日本を訪れた。二人は東京でウクライナ生まれのスコットランド人、ジェームズ・ダグラスに会い、移動の際の支援を受けた。この人物は、国民民主党に近いリヴィウの新聞『ポーランドの言葉』の特派員を装って、ポーランド社会党のために働いていた。ユゼフが東京に出張していた間、ブロニスワフはサハリンをさらに旅し、この時はサハリン中・北部のニヴフ(旧称ギリヤーク)村に住む人々の生活を調査していた。

1905年10月に来日したブロニスワフは、弟の任務についておそらく何も知らなかったのだろう。ポーランド人俘虜に働きかける際に、ブロニスワフ・ピウスツキを利用することをラッセルに提案したのはジェームズ・ダグラスで、ラッセルはこれを受け入れた。そこでブロニスワフは神戸のラッセルの家に滞在することになった。当初からピウスツキはラッセルのロシア人俘虜向けの新聞『日本とロシア』の発行を手伝った。その後両者は一時的に別れ、ラッセルは長崎に、ピウスツキはウラジオストクとサハリンに一カ月間戻った後、最終的にアメリカ経由で帰国することを決めた。

まだ神戸滞在中に、ピウスツキはロシア革命運動の二人の重要人物と会っている。ミハイル・トリゴーニとリュドミーラ・ヴォルケンシュテインである。

ミハイル・トリゴーニ
リュドミーラ・ヴォルケンシュテイン

ミハイル・トリゴーニは、貴族の軍人の家系に生まれ、法律家としての教育を受けたが、「ナロードニキ」の中でも著名な人物で、皇帝アレクサンドル二世の暗殺計画に関与した罪で、1882年に重労働の刑に処された。彼は最初はシュリッセルブルグ要塞で、1902年からはサハリンで刑に服した。サハリンで彼は流刑革命家の共同体に加わり、日本への短期間の亡命の後、ロシア、特にクリミアに戻った。ちなみに、ピウスツキがトリゴーニと出会ったのは流刑の最中、トリゴーニがルィコフスコエで司書として働いていた時である。

一方、リュドミーラ・A・ヴォルケンシュテインは、聖職者と貴族の家系に生まれた、驚くべき女性だった。ピウスツキはウラジオストクで博物館の資料管理人として働いていた時、ヴォルケンシュテインと出会った。彼女は革命運動に参加した廉で有罪判決を受け、シュリッセルブルグ要塞に13年間収監された後、サハリンに強制送還された。そこに疫学者の夫がやって来て、夫妻はまもなくコルサコフとアレクサンドロフスクの診療所で働き始め、その後ウラジオストクに移った。そこで夫妻はピウスツキの知己となったのである。

1906年1月、ピウスツキは神戸でリュドミーラに会ったが、これが二人の最後の出会いとなった。彼女は彼に、「少しの間、自由な空気を吸いに日本に来たのよ」と言った。実際、その十数日後、帰国したウラジオストクでリュドミーラ・ヴォルケンシュテインは、1月23日のいわゆる〈血の日曜日〉の暴動で社会が騒然となっている中、コサックの銃弾によって命を落とした。

まだ1月のうちに、ピウスツキは神戸から東京に向かった。ピウスツキは日本に短期滞在のつもりだったが、滞在は大幅に延長されることとなった。到着して間もなく、『朝日新聞』が「露国人類学者」と題して、ピウスツキが日本に一カ月滞在し、その後サハリンに戻る予定であることを伝える記事を掲載した。しかし、この計画は変更された。

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