社会的関係
日本の社会主義者たち
活動
東京滞在中、ピウスツキは日本の社会主義者たちと非常に親しく交流した。
ピウスツキが東京で彼らと最初に会ったのは、米国への移住を経て日本に帰国した、日本の社会主義の最も著名な人物の一人、片山潜のために、活動家が主催した歓迎パーティーの席上だった。 1906年2月6日、ピウスツキが滞在していた下宿に比較的近い、文芸・大学地区である神田の料亭「吉田屋」で歓迎会が開催された。
片山潜
片山は、日本の社会主義運動とその後の共産主義運動上の重要人物だった。彼は農民の家庭に生まれ、日本、アメリカ、イギリスで多くの職業に就き、最初は独学で、アメリカへの最初の移住後はいくつかの大学で学んだ。片山は世界中の労働組合運動を注意深く観察して、日本で最初の製鉄所労働者による労働組合を設立し、その後すぐに最初の労働組合連合を設立した。1901 年、彼は日本社会民主党(日本政府によって直ちに禁止された)創設の首唱者の一人になった。その後、片山は再び亡命し、1900 年に第 2 インターナショナルの執行委員会のメンバーに不在のまま選出された。1904 年 8 月、彼はアムステルダムで開催されたインターナショナルの第 6 回大会に出席し、日露戦争に対して反対の声を上げた。彼はテキサスで大規模な稲作に従事したが、事業は利益を上げなかった。その後、片山は亡命から帰国することを決心し、その時ピウスツキに会ったのである。
片山の歓迎会のことは、党の新聞『光』に掲載され、ピウスツキは特別ゲストでロシア社会主義党の代表と紹介された。ピウスツキは主催者から求められて演説をし、それは正教会神学校の別の元生徒である加島斌によってロシア語から通訳された。
残されている演説の一部(片山の回顧録に日本語で)は非常に興味深い。ピウスツキは中学校にいる間に初めて社会主義と出会い、その運動が自分の祖国に対して敵対的である(!)と考えた、と語ったようだ。しかし、後にこれが「世界を救いうる偉大なる真実」であることに気づき、大学生の時に革命運動に参加した。それは彼の投獄と流刑をもたらした。彼は全員に行き渡る恩赦のおかげで釈放された。ピウスツキは演説の最後で、社会主義は明るい未来を表し、社会主義の構築は人類の共同責任だと述べたようである。
間違いなく、ピウスツキと東京にいる彼の日本の社会主義者の知人たちのおかげで、『光』の 4 月号にヴァデーツキーを含むロシア人革命家の長崎グループに関する詳細な記事が掲載された(それを書いたのはピウスツキではない)。その後、『ヴォーリャ(自由)』紙は中国と日本の活動家による記事を掲載し、満州の清王朝の支配下にある中国と、ますます帝国主義へと向かいつつある日本の社会主義運動の状況を描き出した。
日本の社会主義者のなかで他に 2 人、色彩を放つ人物が宮崎兄弟だった。即ち、民蔵と滔天である。前者は農地改革の運動に関与していた。日本の農民の状態は嘆かわしく、この差し迫った社会政治的問題の緊急の解決が必要だった。一方、滔天は中国の民族解放運動のメンバー、特に孫文の親しい仲間の一人だった。
ピウスツキはその双方と会った。
加藤時次郎
彼は、20 世紀初頭の最も著名な社会主義活動家の一人であり、ジャーナリスト(クロポトキンの無政府主義思想の影響を受ける)でもあり、『光』紙の共同創刊者である幸徳秋水の友人であり、その主治医でもあった。加藤は幸徳の助言者であり、後援者だった。加藤はまた、略称で「平民」と呼ぶことが多い『平民新聞』の発行を含む、多くの社会主義者の発案に対して財政的支援を行った。
加藤は日本の非常に活発な社会主義者の一人だった。彼は東京市議会議員を務めていたので、首都の社会情勢に精通していた。ピウスツキに会った直後、彼はヨーロッパを旅し、1907 年にシュトゥットガルトで開催された国際社会主義者会議に参加した。加藤は東京に病院を設立し(ちなみに、それはピウスツキが住んでいた箱館屋からそう遠くない場所にあった)、「平民病院」と名付けた。この病院は、裕福でない患者に医療援助を提供しただけでなく、1906年2月に日本社会党の第一回大会の開催場所にもなった。
ピウスツキはヨーロッパに戻った後も加藤との文通を続け、1907年にはベルンで彼と会おうとしさえした。しかし、その年にピウスツキはマリア・ジャルノフスカと一緒にカールスバードとザコパネに旅行したため、おそらく会うことはできなかったであろう。