社会的関係

日本の社会主義のキリスト教の潮流―『新紀元』とブロニスワフ・ピウスツキ

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活動

ピウスツキはキリスト教系の社会主義者にも会った。

安部磯雄

ベルリンとアメリカで教育を受け、プロテスタントの伝道師で、東京の大学の講師を務め、晩年は国会議員も務めた安倍磯雄は、キリスト教社会主義の潮流の重要な活動家であった。安倍は日本におけるフェミニズムの主な推進者の一人でもあり、女性問題に関心を持つピウスツキが安倍の女性仲間と話をしたのも、このような事情からであっただろう。安倍は月刊紙『新紀元』を創刊しており、ピウスツキが安倍らと会ったのはその編集室である。

安部磯雄

石川三四郎

法学と哲学を学んだ石川は、幸徳秋水や平民社編集部と協力して、日露戦争を強く批判した。安倍と行動を共にしながら、『新紀元』の編集長を務めた。またフェミニズム雑誌『世界婦人』の編集長を務めた。

石川三四郎

ピウスツキは『新紀元』に近い社会主義者たちに会いに行った。最初は彼らの事務所で会い、その後、1906年2月25日に開かれた月例会で昼食を共にした。「いろは」食堂で行われた昼食会では、ピウスツキと活動家たちの記念写真が撮影された。

木下 尚江

木下尚江は、女性解放運動に携わったキリスト教ジャーナリストであり作家である。また1901年に設立されたものの、まもなく禁止された社会民主党の共同設立者の一人でもあった。彼はまた『平民新聞』を創刊して、そこで筆を揮った。多くの記事を書き、日露戦争批判に焦点を当てた。木下はキリスト教的世界観に基づく平和主義者であった。この平和主義は、平和的解決、暴力回避を常に心がけていたブロニスワフ・ピウスツキに何か訴えかけるものがあったに違いない。ピウスツキは新紀元社の編集局で彼と会っている。

木下 尚江

上司小剣

彼は読売新聞社に協力した作家、ジャーナリストで、同紙の文芸欄を担当していた。彼は箱館屋からほど近い銀座のレストランでブロニスワフ・ピウスツキと会ったが、フランス語で会話を交わしたという上司の回想が残っている。その回想によれば、日本人に何か特殊なものを見出したかという質問に対して、ピウスツキは、同じ電車に乗っていても、日本人は素知らぬ顔をし、互いに敵意を抱いた目で見て、話しかけず、無視し合っている、と答えたという。興味深い観察であり、これはおそらく全く根拠がないという訳ではないだろう…。

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