民族学
オロッコ人は「カラスのように臆病」
活動
「活動」、「民族学」、「ブロニスワフ・ピウスツキのアイヌ人調査の旅路」を参照
ピウスツキはいくつかの村で、山へ逃げてしまった住民を見つけることができなかったが、それでも彼らに会いたいと思い、ゆっくりと旅を続けた。戦争への不安によって増幅された彼らの疑心暗鬼を、ピウスツキはまもなく克服した。ピウスツキは彼らと知り合い、その信頼を十分に勝ち得たので、あるシャーマンが彼を自分の家に招いて儀式を執り行い、彼の北への進路の今後のコースを示すお告げを探してくれた。そのお告げが良かったため、5月20日にピウスツキは、自分が知っており、親友カンカが住むソチガレを目指して徒歩で出発した。ピウスツキはカンカの案内で女シャーマンを見つけた。彼女は静かに儀式を執り行い、シャーマンになるための若い女性の入門儀礼にも立ち会わせてくれた。
その後すぐに、彼はタライカの少し南にあるナヨロに行き、アザラシ祭に参加した。また狩りの成功を祈願して犬を捧げる儀式(イオマンテ)にも参加した。
物資の調達がますます困難になったピウスツキは、北上して、ロシア行政のもう一つの中心地であリ、かつて自分が流刑生活を始めたティミ川周辺に移ろうと決めた。ピウスツキが書いているように、当時はそうできる者は皆北へ向かい、家族や家庭を疎開させていた。 彼はサハリン最大のポロナイ川を小船で遡ることにした。
この目的のためにピウスツキは小舟と漕ぎ手たちを雇った。彼らは武器と火薬を手に入れるために、彼に同行しようとしたオロッコ(現在の呼称は「ウイルタ」)人たちだった。6月13日から24日まで続いた激流の旅は、夏場につきものの無数の蚊やクロバエ、暑さ、そして食料が獲った魚に限られたために、非常に厳しいものとなった。にもかかわらず、ピウスツキは研究熱心で、オロッコ人の好きな気晴らしである歌謡や伝説、追加のなぞなぞを書き留めることができた。小船で移動し、数人のロシア人が住むウユトノエ村に到着。そこからピウスツキは徒歩でオノールまで移動した。これは、オノール川からルィコフスコエに至る山の尾根に沿って、囚人が開削した道沿いにある、非常に重要な地点である。オノールでは7月8日まで地元の医者の家に泊まり、旅の疲れを癒した。この間、オロッコ語の辞書を編纂したり、とったメモに取り組んだりした。
さて彼は数日間で比較的長距離を踏破した。7月13日、ピウスツキは既にルィコフスコエの北方30キロにあるニヴフの村ウスコヴォにいた。その後すぐにティミ川沿いのスラヴォ村に(現存する舗装道路を)行き、そこからさらにティミ川を小船で北上して、ハズリヴォ、コムロヴォ、チリヴォ、プロヴォ、イルクムィルノ村に行った。彼は流刑の初期やニヴフ人の研究で知り合った、旧友のニヴフ人たちと会った。彼らはピウスツキの訪問を非常に喜んだ。彼らはピウスツキが近くのアド・ティモヴォ山系に登るのを手伝ってくれた。
地元の言い伝えによると、ピウスツキはそこで先史時代の動物の化石を発見し、サハリン博物館のR. A. ポチャエフスキー博士に送ったという。ピウスツキはそのコレクションの一部を、ニヴフの友人フィムカに預けた。
8月10日、ピウスツキはルィコフスコエに到着し、数日滞在した後、以前にソチガレでアイヌから収集した資料に関する指示と、サハリン東岸を再び南下するつもりだったので、通訳の補助を依頼する電信を打った。彼は直前に訪れたニヴフ村から200キロほど南方にあるポロナイ川河口のチフメネフスクで化石の到着を待ったが、その後オノール近くのアブラモフカ村に移動した。
実は1904年8月25日、難破した巡洋艦「ノヴィク号」の乗組員の一部に同行してきたアイヌ数名からなる一団が到着した。(「ノヴィク号」の戦争参加、並外れた海上作戦、封鎖された黄海からの脱出、そしてついに船長の決断による機械設備の破壊、乗組員から編成した二つの分遣隊の英雄的な島縦断は、後世に伝わっている。ピウスツキは乗組員に話を聞き、将来サハリンに関する本の中で「ノヴィク号」について大きな章を執筆するつもりだった。)
しかし、アイヌの到着後、台風が海上と陸上で猛威を振るう中、ピウスツキは3日間待たされて、9月29日になってようやく彼は激流渦巻くポロナイ川を下って出発した。2日間の旅は劇的な出来事に満ちていた。まずピウスツキの乗る小舟が木の幹に衝突して転覆し、この研究者はかろうじて一命を取り留めた。その直後、別の小船に乗っていた電信技師の一家が、ポロナイ川の渦の中で死ぬのを目撃した。数年後、友人たちが記しているように、ピウスツキはタトラ山脈の麓でこの旅の思い出を語った…。
ようやく小船はチフメネフスクに着き、ピウスツキはナヨロに居を構えて、メモの整理を進めた。アイヌの女性たちが男性に内緒で口述してくれた恋の歌も書き留めた。またアイヌ・朝鮮人、アイヌ・ロシア人、アイヌ・日本人、アイヌ・マンザ人(おそらく中国人か満州人)の混血児を含む、住民の人口調査も行うことができた。滞在中、ピウスツキは動物崇拝に関する多くの信仰を記録し、それは彼を魅了した。また謎の失踪したトンチ人の存在の痕跡をとどめる場所にも行こうとした。
11月1日、ピウスツキは小船で海沿いのコタンケシに向かい、知人のシチリキに会った。シチリキは、廃墟となった壕を利用した、非常に独創的なワシ狩りの方法を教えてくれた。