教育学

1903–1904年のコルサコフ地区のアイヌ学校の簡略予備報告

POWRÓT
活動

1903–1904年のコルサコフ地区のアイヌ学校の簡略予備報告

この文書の内容は、学校の活動を簡単に紹介するにとどめている。学校と付属の寮の日常生活を反映するすべての記録を記した日誌を、そこに雇用された教師がまだ送ってこないからだ。〔サハリンの〕軍務知事の許可に従って、学校はナイブチ村に別棟を借りていた。学校がそこに置かれる前は、その建物は夏の間しか人が住んでいなかったのでストーブすらなかった。それで、暖炉を作り、ドアや窓を修理し、二段ベッドを整理しなければならなかった。この改修は12月1日に完了し、1月3日に入植地管理主任が近くのロシア人学校からベンチ6台を送ってくれた。設備も条件も地味で簡素だが、前年と比べれば大きな前進である。

生徒数は6人から10人。年齢は10〜17歳。もう一人、あまり長期間ではなかったが、26歳の大人の生徒がいた。彼の娘が病気になり、家に帰ることになったが、家で彼は算数の勉強を続けた。

学校のカリキュラムは一年前と同じ科目だった。算数、書き方、本を読むことに絞らなければならなかったが、これがとてつもなく緩慢にしか進まなかった。私は話し言葉のロシア語の体系的な学習を導入した。読書帳に出てくる単語はすべて訳し、日々の学校生活で使用する物の名前を暗記させた。最初はとても大変だったが、アイヌ女性とロシア農民の間に生まれた息子が入学してきたことで、これはだいぶ楽になった。アイヌ語を知らない少年は、ロシア語で仲間とコミュニケーションをとった。特に生徒たちが興味を持ったのは、アイヌの言葉をロシア語のアルファベットで書けるようになったことだ。生徒たちはまた文法の練習をし、手記や買った物の説明、日記などを書くことにも熱心で、毎日いろいろなメモを携えてきて私を鬱陶しがらせた。

学校のもう一人の教師はアイヌの太郎治で、彼は生徒と見なすこともできた。私と一緒にいつもとても熱心にロシア語を学び、文法を勉強し、さらに書くことも正確に発音することもできるようになったからだ。彼は教え方の原則を知らなかったので、明らかに民族の教師の理想には程遠かった。しかし当分の間、私の直接の指導の下で彼は私の助手としてとても役に立った。

寮には常に秩序があり、それは望むべくもないほど良好であった。子供たちは自分たちで清潔さに気を配り、木を鋸で挽き倒して割ったり、建物に通じる道の雪かきをしたり、長期間自分たち自身の食事を作りさえしていた。しかし、食事作りは生徒たちにとって時間がかかりすぎるということで、私は生徒の親戚の女の子2人を家事手伝いに雇わざるを得なかった。私は彼女たちに読み書きを習うよう説得し、両親の許可すら得て教え始めたが、彼女たちは最初の授業であっという間にやめてしまった。子供たちは皆、風呂場に行き、自分で自分の衣服の清潔さに気を配り、親は着替えに必要な衣服を進んで縫ってくれた。

生徒の大人の親戚や見知らぬ人たちが学校を訪問し、時には長時間そこに座って授業を参観したり、私が学校用に入手した絵本を生徒と一緒に見たりした。

このような困難で騒然とした時期に、新しい仕事の第一歩を踏み出さなければならないのは、非常に残念なことである。また計画中にあり、生徒とその親にとっても将来的に非常に重要で望ましいと私が考えていた工作を、授業に導入することはできなかった。

1904年8月 B. ピウスツキ

1903–1904年のコルサコフ地区のアイヌ学校のために受け入れた寄付と収入の目録

ノート 100冊

鉛筆 4ダース

インク・パウダー 2箱

組み合わせ文字板 5枚

針 20本

定規 4本

ナイフ 一本

用紙No. 7 一連

ペン立て 3個

ペン 2箱

読本 15冊

第1–5学年

rok II – 5

チホミーロフ『簡略文法』 2冊

ゴルデンベルグ『課題集 パート1 – 3』

ゴルデンベルグ『課題集 パート2 – 3』

ガルボフ『ロシア史』 2冊

クドリャフツェフ『算数』 2冊

『簡略地理学』 一冊

I. P. シェマネルより 用紙No. 6 一連、鉛筆No. 4 一ダース

A. S. ヤクボフスキーより  小型拡大鏡 一個

B. O. P.〔ブロニスワフ・オーシポヴィチ・ピウスツキ〕より タオル5枚、スカーフ2枚

A. P. ビリチより やかん2個、砂糖一斤、レンガ茶10個、磁器カップ5個、カップの受け皿5個

入植地管理人P. P. ヴェルジュベネツより 生肉2プード、灯油一缶、学校のベンチ6台

レンガ茶

現金の受け入れ

軍務知事より 200ルーブル

A. P. タカイより 1ルーブル

J. P. カラツより 2ルーブル

G. P. シェマネルより 2ルーブル

B. O. P.〔ブロニスワフ・オーシポヴィチ・ピウスツキ〕より 50コペイカ

E. N. ニコラーエヴァより 1ルーブル

日本領事・野村〔基信〕より 10ルーブル

I. D. シュレデルスより 2ルーブル

ゴルシュコーフ医師より 『ニーヴァ』誌一年分

学期中、141ルーブル65コペイカを以下に支出した。

教師の給料 64ルーブル

生徒寮の食費 59ルーブル 32コペイカ

教育費 7ルーブル 92コペイカ

文房具 1ルーブル07コペイカ

家事と雑費 9ルーブル 34コペイカ

合計 141ルーブル65コペイカ

残り76ルーブル85コペイカは未使用。前払い請求書と書類は別個に提出。

[Tłumaczył z ros. Antoni Kuczyński]

教場の助手について、ピウスツキは次のように書いている。

以前は私たちの授業は理想的な教育の組織にはほど遠かったが、今ではすでに読み書きを少し知っている者たち、つまり半識字者のための反復コースになっている。ロレー、ナイブチ、アイ、オトサン、セラロコの各集落を廻ることになった太郎治のほか、年長で他の生徒より能力の高いトゥイチノ(18歳)が、彼の集落シヤンツィで子供たちを教え始めた。ニコラエフスクの近くの入植地からきた知人の高学歴の流刑囚が、彼の手助けをすると約束してくれた。

典拠

アントニ・クチンスキ、ヴラディスラフ・ラティシェフ「ブロニスワフ・ピウスツキの教育活動について(資料紹介)」『ポーランド民族学』第37巻、1993年、第2冊(ポーランド語)

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