教育学

1904–1905年のコルサコフ地区のアイヌ初等学校の簡略な報告

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活動

1904–1905年のコルサコフ地区のアイヌ初等学校の簡略な報告

1904年の秋、私はナヨロの村でアイヌの子供たちに教えることを始めたいと考えた。私はそこにより長い期間、おおむね真冬まで滞在するつもりだったからだ。春にナヨロとタライカの何人かの若者から、彼らが学ぶ意欲があることを知らされた。また、チフメネフスク村に住むオロッコ人の子供たちを学校に通わせたいと考えている。

私がいなければ学校の授業は始まらないことが分かっていたので、南部のナイブチ村から太郎治を教師として連れてくることにした。またティミ管区を離れる時に、読本を一部しか入手できなかったので、南部から教材が届くのを待った。

とりあえず南部から教師、北部からはオロッコ人が狩猟を終えてやってくるのを見越して、私はナヨロ村の管理人の部屋に移動した。そして勉強を始めたいと熱望しているアイヌ人に、私のところに来るよう勧めた。これまでに12~16歳の少年4人が現れた。一番年上の少年はすぐにやめた。数字を学ぶのが難しく、また一家族から 2 人が引き離される時間が長すぎると家族から文句を言われたからだ。

ゆっくりと、しかし極めて体系的に、ほぼ毎日一冊の本から読み方、書き方、そしてアイヌが最も容易く学べる算数を教えた。男の子たちは熱心に学んだが、狭いスペース、管理人の住宅の一室での絶え間ない喧噪、そして教材の欠如が障害となった。鉛筆すら手に入らず、時には小さなかけら(使い残し)で書かなければならなかった。私が予定よりも早く南部に向けて出発しようと決めた時、さらに全般的な悲嘆に襲われた。私の念願だったナヨロ村の熊祭りが、来年に延期されてしまったのだ。逆に南部では、5頭の熊を追跡する祝賀会が計画されていた。ナヨロから多くのアイヌが船で押し寄せた。私もこの主要なアイヌの祝祭にもう一度参加したいと思い、悲しむ子供たちと彼らが始めたばかりの勉学を残して、11 月 1 日に出立した。

教師は現れなかった。オロッコも到着せず、行動計画全体が失敗に帰した。私は世話人に、時々子供たちに文字と数字を見せるように頼んだ。しかし、これはうまく行かなかった。軍の外科医がナヨロから孤児である一人の少年を連れてきて、教え始めたが、数日後、年長者たちが戻ってきて、少年を連れ去った。南部では同様の雰囲気と状況を目の当たりにし、春に予定よりも早く学校の授業を終えることを余儀なくされた。

日本軍の上陸が予期されるという噂が広まり、ほぼ毎日のように船から上がる煙があちこちで〔見られた〕。いつどこで上陸を開始するかをアイヌが知っているというばかげた話は、この地でも彼らに届いていた。一方で彼らは日本人が島を占領すると信じていたが、他方では上陸の瞬間とその結果として起こる、島をめぐる戦闘をひどく恐れていた。どうすべきか? どこへ行くべきか? 危険は流れ弾だけが原因ではなかった。軍隊は、放浪者や追い剥ぎ同様にアイヌに恐怖の念を引き起こした。妻のために日本軍に出会いたくないという者もいた。日本人はサハリンを占領した後、ロシア人とアイヌをロシア臣民として島外に追放するという噂もあった。そしてあるアイヌの偉い長老は、私がすべてのアイヌをロシアにおびき寄せるという特別な目的を持っていると言った。多くの者が、日本人が来たら山に逃げる準備をしていた。それぞれの家族はこの困難で恐ろしい瞬間に団結しようと努め、春に寄宿学校から子供たちを退学させるよう主張したのと同じように、今は子供らを学校に戻すことを恐れていた。アイヌが島の将来の新しい支配者になる可能性があると信じていた人々を不快にさせるのではないか、という危惧の念も、影響を与えたと私は思う。ロシア人に対する排外主義的な態度を特徴とする一部の日本人の憎悪は、アイヌにもよく知られていた。

昔、1903年にさかのぼるが、あるアイヌが、一つの集落の子供たちだけを教えるのは良くないと言った。それが認められなかった場合、その結果は仲間の居住者に及ぶことになるだろう。したがって、各集落から子供を一人ずつ教える方がよいだろうと。日本人の一人が、北海道に住むアイヌのためにつくった美しい宣教学校や公立学校と比較しながら、私たちの学校に不満の念を表明した可能性が極めて高い。

アイヌの生徒が徴兵される、またアムール川のどこかでゴリド(現在の名称は「ナナイ」)人が教わっていたが、既にすべての生徒が連れ去られたという噂が、折に触れて集落内で流れていた。そんな噂が生徒の両親に影響を与えるのは当然である。「怒るな」と私の友人の一人のアイヌが言った。「私は息子に教育を受けさせていないが、私たちが明日生きているかどうかまったくもって分からない時に、正直言えば、私の息子が死ぬ時に読み書きができるかどうかは気にならない。」寄宿制の学校と、より効率的な教育組織、つまり学校を一カ所で私が直接参加してつくることは問題外だった。昨年利用した部屋も使えなかった。兵士がナイブチに駐留し、新しい援軍が絶えずそこに送られてきたのだ。そのような状況にもかかわらず、私は授業を完全に放棄したくはなかった。とどのつまり、読み書きがほとんどできない人間は、絶え間ない練習をしなければ、すぐに知識を忘れてしまうことが知られている。そのため、私は教師の太郎治を説得して、この年は少し働くことに同意させ、すでに学んでいた先住民が住んでいる集落を廻って、その地の状況が許す限り、読み書き、数え方を学ばせるようにした。同時に、私は彼に学習を始めたい者を助けることを拒まないよう指示した。

そして、以前の私たちの教室が理想的な仕事の組織からかけ離れていたとすれば、現在の教室は、既に少しばかり読み書きの方法を知っている者、つまりやや読み書きのできる者向けの反復コースとなった。ロレー、ナイブチ、アイ、オトサン、セラロコの集落を巡回することに同意した太郎治に加えて、年長の生徒の一人、18歳のトゥイチノは他の生徒より有能で、シヤンツィの集落で子供たちを教え始めた。知人で、ニコラエフスク近くの入植地から来た高学歴の流刑囚が、彼を支援すると約束してくれた。

一方、私はコルサコフからの帰路に2回立ち寄った時、予測し得たように、これらのクラスが非常に不適切に、ゆっくり、のろのろと運営されているのを目にした。教育者に不可欠な熱意も、機転も、教訓もない。わが教師たちは、先住民の学校教育者に必要な資質を一つだけ備えていた。それは生徒たちの母国語の知識で、それだけで彼らに何でも説明することができた。

私が去るまでに、子供たちは明確な進歩を遂げてはいなかった。すべての生徒の中で、印刷されたテキストをロシア語でやっとのことながら読むことができたのは、6 人の少年だけだった。そして彼らにとってはアイヌ語をロシア語のアルファベットで書く方が簡単で、算術に関しては最初の 3 つの運算を知っている。 9 人の生徒はまだ学習を修了しておらず、算数では足し算と引き算を知っている者もいれば、足し算しか知らない者もいる。

2月20日に私が出発する際、アイヌの少年たちの教育にいつも共感してくれる第2課の監督者ベルジュベンツ氏と、ウラジミロフカ村から来た女性教師A. I. イワノワに、教師と生徒たちを訪問し、双方の精神を良好な状態に保ってくれるよう頼んだ。上記の事情により、私は学校のために金を要求しなかった。提示した勘定書からわかるように、私は前年から残っている金を使うことさえしなかった。私には76ルーブル85 コペイカが残っていた。私はそのうち43ルーブル05 コペイカを使った(即ち、1905 年 2 月 20 日まで教師のために40 ルーブル、そして文房具用に 3ルーブル05 コペイカ)。私は入植地の監督員に 28 ルーブルを残して、教師が教え続けた場合に彼らに支払ってくれるよう頼んだ。私は5ルーブル80 コペイカを自分の手元に置いた。この金で生徒たちのために適当な本やゲームを手に入れて、学校の贈り物として彼らに送りたいと思っている。

この冬、たった一人から贈り物が届いた。ヤコブソン夫人が黒鉛筆4ダース、色鉛筆5本、便箋2帖(24枚)を寄贈してくれた。現在、この激動の不確実な時代に、サハリンのアイヌ学校に関する希望をより詳しく書くことはしない。しかし、学習意欲があることは経験から明らかだ。この地での生活が再び平和で落ち着いた時、学びの追求はより強い形で表われると私は固く信じている。ずっと続く惰性と受動性から解放され、文化的な人種に近づこうとする、アイヌの人々の間のこの明らかな動きに対応するために、金と人材が少なからず必要なことは明らかだ。金は国家によって確保されるべきであり、人材は、有益な発案と善行に対して常に開かれているロシア社会から期待することができるだろう。

すべての始まりには、優れた働き手、仕事に専念する人々、そしてサハリンの先住民が必要である。先住民は、自分たちにとって不幸な出来事のために、何十年にもわたって通常の社会からの追放者、不幸ではあるがひどく甘やかされた流刑囚と知り合ったのであり、より優れた、より価値のある人々を受け入れる権利を誰よりも有しており、彼らの住む土地からの追放は放棄されるべきだ。

先住民に根付きやすく、彼らにとって有益な学校のタイプについては、別のところで書いた(「アイヌの生活整備と統治に関する規定草稿」)。

同時に、金の支払いに関する資料に加えて、アイヌの男子生徒たちの書いたものの例も添付する。

1905 年 4 月 28 日 ルィコフスコエ村 B. ピウスツキ

マウカでのアイヌの子供たちの教育開始についても、言及するのが適切であろう。

1902 年の夏、私が初めてアイヌの人々に出会い、マウカに到着した時、日本語を学ぶ者の数が非常に多いことに驚いた。すでに書き方を知っている何人かの若者が私のガイドであり、彼ら自身が初めて聞いたロシア語を日本語の文字を使ってノートに書き留めていた。アイヌの教師の家では、日本人の労働者や、近くの職人の工房から来た代書人が授業に集中していた。意識的な教育の追求は、彼らの中に明らかに看て取られた。そこで私は高齢者に、彼らの村に学校を開設するよう地方行政に依頼するようアドバイスし、それはもちろんロシアの学校であるが、教育を受けた者の特権は(いかなる言語でも)同じであると説明した。そのような申請書が提出され、島の軍務知事によって承認された。知事は、サハリンに水産加工工場を持っていた実業家のデンビーに依頼して、学校のための部屋を確保するよう指示した。デンビーは 1903 年の春に、私が学校の管理を引き受けるのであれば、この要望を満たそうと約束した。残念ながら、島の東海岸での調査活動と、日本とオロッコ人への旅のために、私はこの申し出を利用することができなかった。しかし、不遠慮な新参者の影響がより少なく、日本人の影響をより強く受けたマウカのアイヌは、サハリン東岸のアイヌよりも学習意欲が強かったことを少し後悔した。これらのジレンマにもかかわらず、私たちはこの学校を運営するのにふさわしい教師を見つけることができなかった。

1903 年の春、キリーロフ医師が実業家のセミョーノフとデンビーと共に、医師の職に就くためにコルサコフ経由でマウカに来た時、私は彼に学校の設立を確実にしうる条件を知らせた。彼は、村でロシア語教育を推進することに加わると約束してくれた。6月、彼は私に、「夏の間は学校を組織することはできなかったが、冬に向けて始めるよう努力する」と書いて寄こした。その学校には12人の子供がいて、その後7人になり、そのうち4人がアイヌの子供だった。その後、彼からの連絡は途絶えた。

1903 年の秋、私はセミョーノフとデンビーの信頼していた人間で、ウラジオストク時代から私が知っている、倒産した本屋のゼンジーノフがマウカに行ったこと、そして彼がキリーロフ医師のもとで始めた子供たちの教育を継続する責任を負っていることを知った。私はゼンジーノフに手紙を書き、学校についての詳細な情報、教育の結果、学用品に関して必要なものを尋ねた。

私が受け取った1903年12月31日付の返信は、次のようなものだった。

「マウカの学校は、以前キリーロフ医師が担当していた場所にあります(もちろん、セミョーノフとデンビーが所有していた鉱山関係の建物の一つです)。毎日暖房が入っています。私が協力して日本の大工と一緒に、学校の長テーブル、同じベンチ、黒板、教室のそろばんを作りました。授業は 11 月 30 日に始まり、休日を除く毎日午前 9時から11時まで行われています。アイヌの生徒は 8 人で、そのうち 4 人がキリーロフから学びました。彼らはほとんど読むことができず、4 人が初めて教育を受ける生徒です。子供たちはすべて8〜10歳でした。キリーロフ医師が残していった可動式アルファベットの助けを借りて、音声方式を用いてアルファベットに取り組んでいます。ロシア人の子供たちについては、その上達を保証することができます。アイヌの子供たちについては、今のところ具体的なことは何も言えません。一つには、子供たちの両親が彼らを別の活動に送り出すので、彼らが規則正しく学校に通って来ないからです。しかし、主な理由はロシア語の知識が不足していることです。読み方では比較的正確な成果を迅速に得ることができますが、それは機械的なものです。彼らはロシア語を知らなくても読みますが、何一つ分かりません。そのため彼らは読むことに興味がなく、自分で学校から出ていくために、読み方を続けるかどうかは疑問です。で、これが主な理由で、これらすべてを回避するにはどうしたらいいか、考えさせられます。

ここのアイヌ人たちは、ロシア人よりも日本人の影響をより多く受けています。すべての子供がロシア語よりも日本語を上手に話すので、ロシア人の教育者は日本語とアイヌ語の知識がなければ、アイヌの学校で成功はできないでしょう。」

宣戦布告後、ゼンジーノフ氏はマウカを去り、子供たちとの授業は中止された。

1904 年から 1905 年にかけての学年度では、76 ルーブル85コペイカが使われなかった。

費やした金額:

1904年11月25日、文房具品 3ルーブル05コペイカ

1904 年 12 月 30 日 、トゥイチノに夏に子供たちを教えた報酬  3ルーブル

1905 年 1 月 20 日、太郎治に12 月 20 日から 1 月 20 日までの授業の報酬 12ルーブル

1905 年 1 月 20 日、トゥイチノに授業の報酬 8ルーブル

1905 年 2 月 20 日、トゥイチノに1 月 20 日から 2 月 20 日までの授業の報酬 5ルーブル

1905 年 2 月 20 日、太郎治に1 月 20 日から 2 月 20 日までの授業の報酬 12ルーブル

合計 43ルーブル05コペイカ

教師の費用として入植地の主任監督員に預けた額 28ルーブル

総計71ルーブル05コペイカ

使わなかった金額 5ルーブル80コペイカ

1905年4月28日 B. ピウスツキ

ここに示した文書は、サハリンにとってはまったく重要でない、別の分野のことを明らかにしている。即ち、B. ピウスツキの人道的および社会的活動である。これらの文書は、この傑出した人物に関する知識を膨らませてくれ、遠い島での彼の教育活動は私たちの教育史のページを豊かにしてくれる。初等学校の活動に関するこれらの報告ですら、彼の教育観が当時として革新的であったことを決定的に証明しており、それは何らコメントを要しない。

V. ラティシェフによって発見された、上に引用した報告から、「他人の利益」のために行動することができたピウスツキの人柄が浮かび上がってくる。この理想的なヒューマニストは、人々を善悪に分けず、宗教や肌の色に関係なく、すべての人に保護の手を差し伸べた。これら多くの美徳に加えて、彼は宗教に対しても寛容であり、「善良な先住民」とは正教会の信仰によって洗礼を受けた先住民であるという、島に住むロシア人の見解を共有しなかった。人々に対するこのような態度のおかげで、B. ピウスツキはサハリンの共同体のなかで大いなる道徳的権威を享受し、それは先住民文化の調査における彼の業績に影響を及ぼさずにはおかなかった。今日、この辺鄙な「牢獄の島」での B. ピウスツキの活動を記録した資料は、ほとんど存在しない。そのため、ここで紹介した学校のレポートに含まれる情報は、ピウスツキの生涯と、彼が長年にわたる流刑中に偶然住むことになった先住民コミュニティの利益のために行った、創造的な努力についての知識を膨らませてくれるため、ますます価値があるのである。

典拠

アントニ・クチンスキ、ヴラディスラフ・ラティシェフ「ブロニスワフ・ピウスツキの教育活動について(資料紹介)」『ポーランド民族学』第37巻、1993 年、第2冊(ポーランド語)

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