ブロニスワフ・ピウスツキ年譜

ブロニスワフ・ピウスツキ年譜

1866 年

ブロニスワフ・ピョトル・ピウスツキは、11月2日にヴィリニュス管区のズーウフ(現ザラヴァス)の地主貴族の三人目の子供で長男として誕生した。父ユゼフ・ヴィンツェンティ・ピウスツキ(1833–1902)はコシチェシャ紋章(逆型)のピウスツキ・ヴァリエーションを有する家系の出で、母マリア、旧姓ビルレヴィチ(1842–1884)はモギワ紋章を有する家系の出である。

ブロニスワフ・ピウスツキの系図
1875 年
7月4日

ズーウフの屋敷で火災発生。ピウスツキ家はまもなくヴィリニュスへ引っ越す。

1877 年

ブロニスワフ・ピウスツキは第一ヴィリニュス中学校に入学。人文科学と自然科学、数学を教えるエリート校である。年子の弟ユゼフも同じクラスに入学。

ヴィリニュスの中学校の写真。スレユヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館のコレクションより(ミロスワフ・ステルマフ撮影)。
1882 年

春に三人のピウスツキ兄弟(一番年下の弟アダムも含めて)と友人たちは、独学サークル「スプィニャ」を組織。これによって非合法活動に加わり始める。

「スプィニャ」のメンバーの写真。左からヴワディスワフ・シュヴェングルベン、ヴァツワフ・ブシュ、ユゼフ・ピウスツキ、ブロニスワフ・ピウスツキ。ワルシャワ国立博物館のコレクションより。

この頃、ブロニスワフは日記をつけ始める(1885年まで)。この日記は将来、ピウスツキ家の生活と若きブロニスワフの精神状態を知るための豊かな資料となった。

1883 年
6月

第6学年に留年。これはブロニスワフにとって極めて深く傷つく体験となった。だが事実は、当時のロシアの教育制度では第6学年末の試験は、生徒数を大幅に削減するために使われたのである(時として20名のグループのうち、試験に合格したのは10名弱のみということがあった)。ユゼフは試験に合格した。

7月

ブロニスワフは第二ヴィリニュス中学校に移る。

ゾフィア・バニェヴィチに恋をする。初恋である。ゾフィアは彼にピアノを教えてくれた。ブロニスワフはピアノを弾くのが大好きで、将来、流刑地で家族にシート・ミュージックを送ってくれるよう頼むことになる。

ピウスツキ兄弟の父ユゼフ・ヴィンツェンティ作曲の楽譜。ワルシャワ国立博物館のコレクションより。

ユゼフ・ヴィンツェンティ・ピウスツキ作曲「ルーマニア・ワルツ」、アレクサンデル・オポルスキ演奏。

1884 年
9月1日

母マリア・ピウスツカ死去。

マリア・ピウスツカ、旧姓ビルレヴィチ、ヤニナ・ワシュキェヴィチ=ミェシュチャンコフスカによる油絵、スレユヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館のコレクションより(マツィエイ・ワブツキ撮影)。
1885 年
4月末

ゾフィヤ・バニェヴィチ、母親の差し金でペテルブルグへ行く。

8月

ピウスツキ、ヴィリニュス中学校の第7学年を修了。
教育を継続し、第8学年後の試験でネガティブな「選別」が繰り返されることを避けるために、サンクト・ペテルブルグへ出発。

19世紀末のサンクト・ペテルブルグ。
8月27日

サンクト・ペテルブルグで「アラルチン中学校」と呼ばれた第五古典中学校の第8学年に編入学。ブロニスワフはヴィリニュスの社会の雰囲気を耐え難いと感じていたので、サンクト・ペテルブルグへの転居をとても喜んでいた。

1886 年
6月

中学校を卒業。

8月
ブロニスワフ・ピウスツキが下宿した共同住宅(ダヌタ・オヌィシュキェヴィチ撮影)

8月10日
帝室サンクト・ペテルブルグ大学法学部に入学。多数の学生と知り合い、その中には革命運動に共感を抱く者たちもいた。

12月末

クリスマス休暇をヴィリニュスで過ごす。これが最後の故郷滞在となる。この間、「人民の意志」党テロフラクションがサンクト・ペテルブルグとヴィリニュスで皇帝アレクサンドル三世暗殺計画に同時に着手。

1887 年
3月3日

ロシア皇帝アレクサンドル三世暗殺計画が失敗に終わった後、ブロニスワフ・ピウスツキは共謀者のひとり、ミハイル・N・カンチェルに密告されて、住居で拘留。ペトロパヴロフスク要塞に拘禁された。弟ユゼフも陰謀に関与した廉で拘留、尋問され、刑罰の一部として行政措置で東部シベリアヘ流刑となった。
この拘留についてより詳しくは、スレユヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館の常設展の「ジューク」展示室の一部を構成する、インフォグラフィックによって紹介されている。

ペトロパヴロフスク要塞
4月15–19日

元老院での審理(皇帝暗殺計画のように重要な国家理由の問題に関わる政治事件は、元老院で審理された)中に、ブロニスワフ・ピウスツキを含む15名の被告人に死刑の判決が下された。

4月23日

皇帝の大赦により、ブロニスワフ・ピウスツキの死刑は15年間のサハリンでの徒刑労働に替わった。

5月8日

死刑を宣告されたアレクサンドル・イリイーチ・ウリヤーノフ(ウラジーミル・イリイーチ・ウリヤーノフ、後のレーニンの兄)を含む5名の被告人が、シュリッセルブルグ要塞内で絞首刑に処された。

既知の世界に別れを告げる

ブロニスワフ・ピウスツキはサンクトペテルブルクの刑務所に一時的に収監された後の18876月にサハリンに送られました。オデッサ市から始まる「ニージニイ・ノヴゴロド号」の船の旅の記述はヴィリニュスのリトアニア科学アカデミー図書館のコレクションにあるブロニスワフの父宛の手紙から知られています。ステファン・ジェロムスキ(Stefan Żeromski)の小説『人生の美』の第3部ではブロニスワフ・ピウスツキ(Bronisław Piłsudski)がアメリカ経由で故郷に帰国しサハリンでの滞在について他の乗客に話す流刑者グスタフ・ベズミアン(Gustaw Bezmian)として登場します。

流刑の旅の準備をしていたブロニスワフ・ピウスツキは15年間の重労働を宣告された若者のジレンマを伝え、また家族の優しさへの愛と感謝を述べ、これらの価値観と愛おしい記憶でこの困難な流刑の時期を生き延びれると手紙を父宛に書きました。

1887518S.P.T. [サンクトペテルブルク] 予防拘禁所

親愛なる父よ!

もう一度、私の心からの思いと感情をあなたと分かち合いたくて、再度手紙を書くことが許されました。私は、あなたに話したいことがこれほど多く、私の魂に抱いたことはなく、今ほどそれができないこともこれまでありませんでした。ですから、もし私の手紙が少し不器用だったり、不完全でも、いつものように、私が深く、本当に感じていることを書くと理解してください。夢としか言いようのない楽しい人生が過ぎ去りました。私は快感に満ち溢れた心地よい深い眠りに浸り、周囲の現実をほとんど忘れて、一つの目標に期待と感情を向けて、雲の下をふわふわと飛んでいたかもしれません。人は自分が何をしているのか気づかないとき、あることを考え、言い、別のことをするとき、それは“夢”ではないでしょうか。私はひどい状況に置かれて目を覚まさなければなりませんでした。重い判決に文句を言うつもりはありませんが、その判決は私を改善するために全く必要ありません。罰や苦しみへの恐怖だけが私を正気に戻せるならそれは恐ろしいことです。しかしその一方で、法に従い権利を与えられる正義感を満足させる刑罰は、君主の恩寵でのみ軽減されました。また一方で、この種の犯罪を他人が起こさないための唯一つの方法なら、これだけがおそらく唯一の慰めになります。私の壊れた人生が、善良だが情熱的な若者を悔い改めるのに十分であるならば、私は幸せになります。私は、自分のせいだけでなく、私のようにたくさんの人々が苦しまないように、そして私を見て、自分の意図を変え、社会の有用な一員になろうと決心するという事実が起こると、自分を慰めています。もちろん、それは私の美しい人生の年月を残念に思い、浪費される夢を残念に思いますが、それを手放すのは難しいことではありません。私は人生において複数の個人的なメリットを求めてきましたし、人生から多くの喜びを期待してきました。もし誰かが他の人のための苦い模範となる運命にあるとしたら、それが私の運命になり、私の兄弟や私の良き友人の誰の運命にもならなかったのはさらに良いのです。彼らはその能力とタフな性格のおかげで私よりも多くの良いことを社会のためにすることができるでしょう。いずれにせよ私は、多くの人より、もしかしたらほとんどの他の人よりも幸せなので、何のために自分の失われる幸せにこだわるのでしょう。ほぼ20年間は心配事や悩みもなく過ごし、私はすべてに「より高い」喜びを味わうことができ、一時的に気まぐれさえも満たされる機会を得ていましたが、多くの人々は絶え間ない重労働で一生を過ごし、パンの一切れをも心配し、しばしば基本的なニーズさえ満たされることができないのです。しかし私はなかなか落ち着けません。良心が正当化されなければならないのに、それに対して満足のいく答えがないのに、どうして穏やかでいられるのでしょうか。父よ、あなたが私を気にかけてくださったこと、私の教育のために多くのお金を使ったこと、私を育てるために働いてくれた人たちへの恩返しはいくらですかという私の良心の執拗な質問に、私は一つの否定的な答えしか返せません。私を取り巻く愛のお返しに何を捧げ、私の周りにいるすべての親愛なる人々への愛をどのように証明したのでしょうか。

感謝の代わりに悲しみを与えてしまう、そして全てではないかもしれないが人生の半分以上が無駄に過ぎ去るということがわかっている、そういう人間の状況が恐ろしいのです。自分には神聖な義務があり、それを果たすことができないことを認めることが難しいのです。

そのような果たされていない義務について考えることは私を正気に戻し、この考えは、私が悲惨な刑罰に服している間、ずっと私の精神を支えてくれるでしょう。.ロシア皇帝の恩寵により私の命が助かると告げられるその日には、私はいつか社会になんとか復帰するまでこの命を全力で大事に守り、そして少なくとも部分的に父や多くの人々から受けた恩に少しでも報いる、そしてそれらの人々のより良い人生で私の重大な罪を洗い流す自分に誓いました。私は自分の状況が非常に困難であり、あらゆるステップで自分自身と戦わなければならないことを知っています。私は自分の弱い体を最も困難な状況に備えさせ、弱い性格を固くし、優柔不断や絶え間ない疑念を取り除き、また自分をもっと信じて、このようにして自分の弱い意志を強い意志にすることを余儀なくされます。これは、私の惨めな存在を少し長引かせるだけではなく、私が本当に父上のところに戻りたいのなら、私にとって絶対に必要なことなのです。クリスチャンの愛と神についての父上の2つの発言については、父よ、どうぞご安心ください。キリスト教の教義にある道徳の原則は、常に私にとって理想であり、私の全魂はそれらに浸透しており、それらから一瞬も離れることを考えず、決して再び放棄しないと誓います。神と唯物論者の様々な教えについては、この場合は、科学的な観点に関する私の無知さを認めるしかありません。

私は、要塞の中にいるときでさえ、いわゆる自然哲学のいくつかの側面を調べました。私の考えでは、その広く大きな全能の存在として理解不能で、しかし驚くべき存在である神の存在は、さまざまな種類の現象の出現条件を説明できても、その本質や原因を説明することまではできないことが、唯物論者たちによって最もよく証明されています。彼らは、すべてを物質に還元することはできるが、誰が物質を創造したのか、誰が物質に正しい不変の原理という形の性質を与えたのか、答えることはできないのです。誰がそれらの原理を正確に守ることを重視するのでしょうか。

私は、無学な人々がしばしば “新しい現象”と呼ぶような、そのような彼らの注意を引くような、孤立した“奇跡”を考えていません。私の意見で、神の意志の顕現を証明する“奇跡”とは例外なく全てであり、私たちの目の前で起こる最も単純で普通のプロセスからのものであり、そして自然界に見られる完璧な、数えきれないほど多くの世界の動きにおけるその調和と驚くべき広く大きな、計り知れない無限の空間なのです。

みなさま、特に父よ、私が何かあなたに不当なことをしたのなら私をお許しください。私はあなたの愛を決して忘れません、そして神様が許すのなら私はあなたに報いるでしょう。兄弟姉妹のみんな、さようなら! 愛する父を、お互いに、そして周りの人々をもっと愛することができるように、私の愛の一部をあなたに伝えたいと思います。あなたが私よりも優れていて幸せになるように、私のすべての経験をあなたと共有したいと思います。私は年上でしたが年上らしいことをいつもしていたわけではありません。今私はあなたたちにすべてを譲ります。でも15年後に戻ってきたらぜひみなさまの経験とアドバイスが必要になるので。これからはあなたがた全員が私の過ちを憤慨している父に私の代わりとなって父への愛と労りによって父を慰め、その苦しみを慰めようと努めてください。自らの義務を決して忘れず若者によくあるけど自分に合う人だけを良い人だと考えてはいけません。学び、体系的に成長し、まだ説明できない問題を解決することを恐れないでください。しかし何よりもあなたの道徳性について、あなたの性格について覚えておいてください。なぜなら人生に害を及ぼすのは心の不完全な発達ではなく性格の欠如だからです。. 節度を保ち(ただしこれを人を辱める凡庸さと混同しないでください)、私が“盲目”であった間は私自身情熱に押されそれを否定していましたが、私は今、多くのことに同意する長老たちのアドバイスに耳を傾けてください。真実を愛し自分の過ちを認めることを決して恐れないでください。改善しないよりは遅くなっても改善したほうが良いのです。そして今、もし私があなたたちの愛と信頼を得られるのなら、小さな動きでも常に自分自身に気を配り、「あなたたちが自分自身に気づいたこと、または自分の欠点について他の人から聞いたことを解決するまで休んではいけない」と、あなたたちが私に約束してください。さて、さらば。すべての人に対する真のクリスチャンの愛を例外なく吹き込まれたあなたたちは私が長期間閉ざされる人生を首尾よく歩むと、私は確信しています。

親愛なる人々よ、親戚のみなさま、同志のみなさま、友人のみなさま、さらばです。私の最愛の父よ、悲しみの感情に負けないでください。なぜなら人間の力で戻したり変えたりすることができないものには従うしかないからです。

父の苦悩を意識することは、私をさらに疲れさせるだけです。私があなたがたを愛していた、あなたがたを愛している、そしていつまでも愛し続ける、そして私は自分の行動であなた方にそれを証明する望みをまだ失っていません。もう一度私を許し、20世紀までのお別れです。

あなたがたのブロニスワフより

[サハリン島への旅やこの島での滞在中に出された手紙のほぼすべての手紙と同様にこの手紙はロシア語で書かれました。]

この手紙は過去の時間の終わりであり、未知の世界への新しい道を示しました。

ブロニスワフの父親は息子の恩赦を得ようとしましたが成功しませんでした。裁判中彼は息子に2回面会しました。img

1887526に逮捕されたブロニスワフ面会したことを書き留めた父親のユゼフ・ピウスツキのメモ(W.ラティシェフのコレクションからのコピー)

. 5月末にブロニスワフ・ピウスツキと彼の仲間は数日間モスクワのブトィルキ刑務所に移送されました。そして独房で3ヶ月過ごした後に偶然で暗殺事件に巻き込まれ、あまりよく知らなかった裁判の仲間と一緒に時間を過ごすことができました。彼はそれを“孤独からの解放”として安堵していました。

Więzienie Butyrki w Moskwie

モスクワのブトィルキ刑務所

66日に彼らはオデッサ方面へ向かう列車に乗り込みました。オデッサはダイナミックに成長する港であり主に船舶と戦争輸送を扱いそれに流刑者の輸送も含まれていました。港の近くには鉄道駅や刑務所が建設され、クリコフ地区全体が刑務所のサービスと事務サービスを生活基盤にしていました。既にここで遠島に送られる流刑者は「サハリント」と呼ばれていました。

Port w Odessie pod koniec XIX wieku

19世紀末のオデッサ港(所蔵:V. Latyszew

ブロニスワフ・ピウスツキを乗せた船は188769日にサハリンに向けてオデッサを出航しました。何百人もの刑事犯の囚人に加えてブロニスワフ・ピウスツキらも、有罪判決を受けた4人の政治犯ミハイル・カンチェル、ピョートル・ゴルクン、ステパン・ヴォーロホフ、イワン・ユヴァチョーフも乗船していました。

ブロニスワフ・ピウスツキは父宛の手紙に書いたように次の世紀まで離れることのできない未知の世界へ旅立とうとしていました。

5月27日

ブロニスワフ・ピウスツキの移送開始。ペテルブルグを鉄路で出発し、モスクワのブティルカ監獄を経由して、66日にオデーサに到着。

6月9日 – 8月3日

オデーサから525名の既決囚を乗せた義勇艦隊の汽船「ニージニイ・ノヴゴロド号」で、スエズ運河、コロンボ、シンガポール、長崎を経由してサハリンへ送られる。

流浪の旅

航路

Schemat rejsów Floty Ochotniczej na Sachalin

義勇艦隊のサハリンへの巡航計画 (写真:W. Latyszew所蔵)

ブロニスワフ・ピウスツキより2年も前にエドムンド・プウォスキ(1859-1942)も同じ様な旅をしました。プウォスキが残したメモのおかげで国営の巡航船であった義勇艦隊の船「ニージニイ・ノヴゴロド号」のサハリンへの流刑者輸送の正確なコースが知られています。

1883年にいわゆる「大プロレタリアート」のメンバーが逮捕され死刑判決を含む重刑が下された数多くの裁判の後にプウォスキが追放を宣告された数百人の活動家グループの一人となったことを言っておかなければなりません。当初プウォスキはワルシャワ城塞の第10囚人棟に1年間収監されました。彼の伝記を書いた作家によると取り調べ中に彼は泣き崩れ有罪の証言をしましたがすぐにそれを撤回したそうです。彼はすべての権利の剥奪と懲役16年を宣告され追放の地はサハリンになりました。

プウォスキは妻と共に12年間サハリンにいました。そしてその後数年間はブラゴベシチェンスクで過ごしました。1917年の革命後に彼はなんとかして日本に行き、そこからヨーロッパに渡り、ガリシアのリマノワに定住しそこで事務員として働きました。サハリンのアレクサンドロフスクでも日本の長崎でも後にリマノワでもエドムンド・プウォスキと彼の妻はブロニスワフ・ピウスツキと会いました。ポーランドが独立を取り戻した後にプウォスキはヴウォツワヴェクの地方裁判所長に就任しました。そしてポーランド第二共和国では上院議員を務め1930年には年金生活をはじめました。

前述の船「ニージニイ・ノヴゴロド号」はオデッサ港からサハリンまでアラビア半島・インド半島・インドシナ半島など南アジアを定期的に巡ってサハリン行きの流刑者を輸送し上海からお茶とインドから少し品物を積んでオデッサに戻りました。囚人の船室は船首部分の甲板の下にありました。

Model okrętu „Niżnij Nowgorod” z Muzeum w Jużno Sachalińsku, foto. Prokofiew

ユジノ・サハリンスク市の博物館所蔵の船の模型「ニージニイ・ノヴゴロド号」、写真:プロコフィエフ

はこの旅を次のように語っています。

「甲板の下の船倉の各船室は鉄格子で仕分けられ船室の横には長さ約50メートル幅約5メートルの長い廊下がつくられている。船の中央部もほぼ同じ幅で警備員用に、また船の下層階への開口部と船の内部と甲板をつなぐ階段がある。船側に沿って2段の “ナラ”と呼ばれた床が延びている。そこで囚人はほとんど寝たような姿勢で旅をしなければならない。この長さ21メートル幅2メートルの狭い床は船倉にいた約200人の乗員のすべての動きも妨げている。この船倉の一方の船の前方には23段の高さに洗濯用の小さなスペースとトイレがある。このトイレには木製の物が何もなかったので喫煙が許され船倉の寝室での喫煙は厳禁である。船の壁の上部の甲板の下には大きな皿ほどの丸窓が10個ほどあるが人の頭はほとんど通らない。海が穏やかでこれらの窓を開けられるときだけいくらか光と新鮮な空気を船内に取り入れることができる。波が荒いときは窓は閉じられしっかりねじで固定され手で開けることは不可能だ。この状態での唯一の換気は甲板につながるパイプと甲板に通じる中央の船倉の開口部だ。しかし暑い地域を航行しているときはこの換気だけでは不十分で船倉の人々は酸欠状態で息苦しい。ときどき気を失う者もいたが甲板に運ばれ水をかけられ意識が戻ったらまた船倉内に戻された。このように失神した者がときには一日に数十人が運び出された。また船倉内の空気を入れかえるために全員が甲板に連れ出されて人々は体をくっつけて立ったまま浴びる狭いシャワー室に連れていかれた。もちろん海から汲み上げたばかりの新鮮な海水はとても爽やかだがこのような密な接触は皮膚病を特にしばしば一般的な熱帯性潰瘍の相互感染を引き起こした。それは悪性の病気ではなく簡単に治療できたがそけいリンパ節が腫れてすべての動きを妨げ激痛を引き起こしひどく苦しいものだ。しかし涼しい場所に行くと潰瘍はすぐに自然に治った。」

また特に熱帯地方を航行しているときの飲料水不足も深刻でした。しっかりと覆われた大きな樽には前に船の推進機械を冷却するために使用されていた川の水または蒸留水が入っていました。囚人はチューブを通してそれを飲むことができました。しかしこの水は気分を害し病気の根源となり少数の人だけがそれを使っていました。

船での最高権力者はオデッサの知事でした。彼は幅広い権限を持ち裁判なしで誰にでも死刑を宣告することができました。しかし囚人たちが船内で火事を起こしたとき知事は彼らに絞首刑を命じましたが執行されませんでした。罪を犯した者は数十回の鞭打ちを受けただけで彼らはそれだけで済んだことを喜んでいました。

この旅の途中で通過する各気候で流刑者は暑さ・厳しい寒さ・酸欠・船酔いを経験しました。小さな窓から景色を眺められるとは限りませんでした。しかし見ることのできたコンスタンチノープルの眺めはプウォスキを魅了しませんでした。彼は「スエズ運河を通る旅が2日間続きその後船は紅海を航行した。」と書き残しています。そのときの囚人たちにとっての大きな驚きは彼らが小さなグループに分けられて甲板に連れ出され鎖を外されたことでした。

「この重さがないと足はなんと軽やかに自由に歩けるんだろう。特に何十人が歩くと起こる絶え間ないジャラジャラという音がなくなってどれほど心地良かったことか。最初このじゃらじゃらという音は聴覚と脳にとってまさに拷問だった。 時間が経つにつれて聴覚と脳は鈍くなりもはや苦しみとしてそれに反応しなくなる。でもこの苦しみは潜在意識の中にあって時々より深刻になることがあった。このいわゆる何かに慣れることはそれが苦しみを引き起こすのをやめることではないのだが、この苦しみにはもはや注意を払わなくなった。鎖を外されることが自由への第一歩なのだ。」

紅海を通過する間の猛暑はまさに拷問であり多くの流刑者は一日に数回気を失いました。プウォスキは「この5日間はひどい拷問だった。」と書いています。しかしインド洋に出ると天気に恵まれ風が吹いていて囚人たちは船酔いに苦しんではいましたが疲れ果てる暑さよりもよく耐えました。その暑さをしのぐために多くの乗客は服を脱ぎ裸で過ごしていました。食事は大幅に改善されたのに暑さでみなが食欲不振に陥っていました。船員のと同じ肉の入ったスープがいくらでもありました。入港したコロンボやシンガポールの港では囚人のために南部の果物を仕入れ赤ワインも飲まされて紅茶もより多く与えられたのです。それは囚人の壊血病の発症を防ぐことが目的でした。その中でも一大センセーションを巻き起こしたのはパイナップルの香りの石鹸が配給されたことでそれを丸ごと食べる人もいました。

Port w Nagasaki pod koniec XIX wieku (fotografia ze zbiorów W. Łatyszewa)

19世紀末の長崎港(写真W. Latyszew所蔵)

7月にこの旅する者たちは赤道を越えました。そして長崎の近くでようやく涼しくなり多くの人の健康状態が改善しました。幸いなことにプウォスキが乗船した船は例えばプウォスキの妻や亡命客の家族を含む女性たちがサハリンに向けて出航した「コストロマ号」や他の船のように厄介な伝染病に見舞われることはありませんでした。それらの船では1日あたり約60人の死者が出ていました。長崎に数日間停泊した後に船はウラジオストクに向けて出発しました。そのときは特に夜間の酷い寒さを避けるために誰もが服を着なければなりませんでした。なかには8月中旬だったのに毛皮のコートをもらった人もいました。ウラジオストクでの1週間の滞在は一種の検疫でした。

Port we Władywostoku pod koniec XIX wieku, w głębi zatoki po prawej stronie okręt „Niżnij Nowgorod”

19世紀末のウラジオストクの港、右側の湾の奥に「ニージニイ・ノヴゴロド号」がある(写真:W. Łatyszewaラティシェフ所蔵)

医療委員会が乗船し囚人を診察して肺と心臓を検査しました。下船を認められなかった者はいませんでした。みんな必死にサハリンを目で探していました。また多くの人が「サハリンはアメリカからどれくらい離れているか」と聞きました。もしかしたらこの「遠くて良い国」に逃げるという考えがあったのでしょうか。逃亡できる可能性に関する非現実的な希望についてのプウォスキの説明は非常に不可解でした。8月末にニージニイ・ノヴゴロド号はサハリンの海岸に到着しました。誰もがこれからの人生を過ごすこの危険な土地を見たがっていました。しかし霧が島全体を覆っていました。

「船は岸から遠く離れたところに係留し波に揺れていた。時々サイレンの轟音で住民に船の到着を知らせて人や物資を降ろすための小舟の到着を待っていた。私たちもそれを待ち構えていた。刑務所での生活は悪い方に変わるとわかっていても常になんらかの変化を望んでいるのだ。要するに現実が、たとえそれが刑務所の環境でもやや穏やかであっても、怠惰と絶え間ない強制的な熟考にすぐ抑圧され、常に変化への欲求が生じ、現実は今よりも悪化することがないように思うのだ。だから囚人たちの間では荷降ろしのための小舟の到着が遅れたことが荷降ろしを早めたいという気持ちにさせたのだ。」

Przystań w Aleksandrowsku, widoczne molo do którego nie przybijał sam statek, z powodu płycizny, lecz jedynie barki, wysyłane po pasażerów i załadunek na statek zacumowany dalej od brzegu

アレクサンドロフスク港は浅瀬のため船は停泊せず、艀船が乗客を迎えに行き、係留した船から積み荷を運ぶための海岸からのびた桟橋(写真:ポーランド芸術科学アカデミー所蔵、寄贈:ブロニスワフ・ピウスツキ)

50人ずつが乗れる艀船が3隻到着しました。船には800人の乗客がいたのでその艀船は何度も行き来しました。大きな波・揺れる海・雨は乗客を怯えさせました。岸は絶えず遠ざかり艀船は横に傾き乗客はパニックに陥りました。

「船着き場までのこの1時間の移動はオデッサからサハリンの岸までの旅よりも囚人を怯えさせた。しかしすべてには終わりがある。ずぶ濡れになったが運良く港の桟橋に立った。」

Barka z zesłańcami przycumowana na Przystani Aleksandrowskiej

アレクサンドロフスク港に係留した流刑者を乗せた艀船 (写真:ポーランド芸術科学アカデミー所蔵、寄贈:ブロニスワフ・ピウスツキ)

アンナ・マリア・ストゴフスカ、船で亡命。サハリンでのエドムンド・プウォスキ 、https://zeslaniec.pl/51/Stogowska.pdfに基づいて

8月3日
汽船は北サハリン西海岸のアレクサンドロフスク哨所に到着。

エドムンド・プウォスキが見た、流刑地到着後のブロニスワフ・ピウスツキ

エドムンド・プウォスキの回想記からの抜粋

「私はブロニスワフと会った最初の日のことと、サハリンで最初にポーランド語を聞いた時の彼の大変な喜びようを覚えている。私は彼を自分のアパートに連れて行った。そこで彼は子供のように声を上げて泣き、自分が流刑になった話を細大漏らさず、包み隠さずに語った。彼は、ロシアの司法制度ではよくある悲劇的な司法の過ちの犠牲となったのだ。ブロニスワフは中学校時代の数多くのロシア人の友人を持っており、サンクト・ペテルブルグで彼らとの接触を続けていたが、彼らが何をしているか知らず、知りたいとも思っていなかった。彼は学問を夢見、将来この分野でキャリアを積むことを望んでいた。自分の身近な同僚たちの中で、彼はカンチェルを最も親しい友人の一人と思っていた。ブロニスワフをこの人物に近づけたのは、彼らの家庭の地位と似通った文化レベルの双方だった。それゆえ二人はサンクト・ペテルブルグで友人だった。カンチェルの依頼でブロニスワフは友人として彼に自分の部屋を使わせた。それは部屋の入り口が別個になっていて、隣室から隔離されていたからだ。カンチェルは友人の集まり、講話、あるいはそれに類するものを組織しなければならないと言って、自分の依頼を正当化した。もちろんブロニスワフは、友人の集まりや講話、一緒に読書するのが非合法であることは知っていたが、そこでテロリストの陰謀をめぐらしたり、爆弾を準備するなどとは思っても見なかったし、そのような考えはまったく思い浮かびもしなかった。けれどもそれが正しくカンチェル個人の参加のもとに、カンチェルの友人たちがしていたことだった。陰謀が露見した時、参加者たちは手に爆弾を持った状態で逮捕された。そしてカンチェルは監獄で鬱病に苦しみ、ちなみにそれは経験の乏しい若人によくあることだったが、ピウスツキを密告したばかりか、明らかに自分が助かりたいと願って、証言せよと言われたことを証言したのである。即ち、ピウスツキはサンクト・ペテルブルグでもヴィリニュスでも、分かった上でこの革命の仕事のために自分の住まいを貸したのだと。ピウスツキがこれらの告発を否定したことは、彼が政変の組織者の一員であり、ほぼその首謀者であるという警察の確信をますます強めることとなった。法廷でカンチェルは自分の証言を自ら撤回したが、それはもはや何の役にも立たなかった。従って、皇帝が通過すると思われていたネフスキー大通りで爆弾を抱えた状態で逮捕されたこれらの若者たちは、各自10年の徒刑を宣告されたのに、ピウスツキは15年を宣告されたのである。シベリアへの途上、彼らは船の一つの客室で一緒に運ばれた。カンチェルはピウスツキに対する罪を詫びて赦しを求め、鳩のように優しい心のブロニスワフからその赦しを得た。ブロニスワフはカンチェルに、彼を許し、その過ちを忘れること、そして同志たちに不平を訴えないことを約束した。彼は私にそのことを語ったが、名誉にかけてそれを秘密にしておくよう私に強いた。その秘密保持は、しかしながら、我々の意図にもかかわらず続かなかった。我々のアパートはとても貧弱で原始的なもので、壁は剥き出しの材木、床は割れ目だらけで、女たちの努力で幾分飾り立てられていたが、そのアパートでブロニスワフはより快活になった。自由が戻りつつあり、自分が父の田舎の領地の屋外便所にいて、家族と一緒にいるように彼には感じられた。監獄では彼は年齢よりはるかに老けて見えたが、それはおそらく彼の顔に映し出された疲労の結果だろう。ここでは逆に私が目にしたのは、薄いブロンドの、素晴らしく優しい青い目をして、生き生きとした快活な青年だった。私が獄舎でブロニスワフの顔に認めた沈滞した絶望の表情は、ほぼ完全に消え去った。自分を待ち受ける未来についての会話で、彼は平穏と希望のイメージを描いてみせた。」

 

8月9–12日

他の既決囚たちとともにブロニスワフ・ピウスツキは、ティミ管区のルィコフスコエ(現キーロフスコエ)村の監獄へ徒歩で護送される。

他の流刑者たちの運命
Michaił Kanczer

ミハイル・カンチェル

Stiepan Wołochow

スチェパン・ヴォーロホフ

Piotr Gorkun

ピオトル・ゴルクン

Iwan Juwaczew

イワン・ユヴァチョーフ

長い航海後の3日間の休息はこの新しい土地の見学とプウォスキとの話で直ぐ過ぎました。またプウォスキの人脈のおかげでブロニスワフ・ピウスツキと一緒に来た流刑者たちには午前中だけの肉体労働が科されました。そしてそれ以外の時間も休養したりまたは点呼の午後9時まで刑務所の外で過ごすことができました。プウォスキはこの島で自身の滞在が始まったときを思い出しながら、地元当局が囚人の過去や犯した犯罪に関心がないことを刑務所長の歓迎の挨拶の言葉を引用して話しました。そして皆のこの島での運命はここでのこれからの行動によって決まるとも話しました。働きたい人はいくらかの救済を受け刑期を早く終わらせることもできるとも言いました。誰も囚人を管理したり囚人が鎖につながれることもなく囚人は団地の敷地内を自由に歩くことができて逃げようとしても誰も邪魔しないと。兵舎や塹壕の建物の周りに警備員はいないし周りに柵もない、島全体が海に囲まれている刑務所だから、森の中では飢え死にするから、遠くまで逃げられないと。でも刑務所長は悪徳行為や反抗するときやルールに従わないときは罰として鞭打ちするとも脅しました。

アレクサンドロフスクでの短期滞在後ブロニスワフ・ピウスツキと彼の仲間はサハリン島の奥深くへ送られました。そして流刑者の一部はティミ管区に送られ大きなルィコフスコエ村に定住させられました。ブロニスワフ・ピウスツキもその一人でした。地元の地区長はブタコフという名のコサック人で良い管理人と見なされていました。その主な任務は委託された領土を流刑者を使って開拓させることでした。東へ海に流れ込むティミ川の渓谷は農業や牛の飼育に適していました。しかしここの気候はアレクサンドロフスクよりもさらに過酷でした。冬はさらに厳しく夏はさらに暑く降雨量も少ないので穀物の熟成が早まりました。流刑者のアレカンドリンとヴォーロホフとゴルクンは土地と家畜をもらった後に農業協同組合を設立しましたが思想的な論争がすぐにそのアイディアをダメにしましたプウォスキは「ユヴァチョーフとブロニスワフ・ピウスツキは測候所を仕事場としてその隣のアパートも与えられて、ルィコフスコエでの滞在が終わるまで彼らは比較的平和だった。」と書き残しています。

"Ulica w wiosce Rykowskoje obwodu tymowskiego, po prawej więzienny lazaret, po lewej z daleka - więzienie"

「ティミ管区のルィコフスコエ村の通り、右側に刑務所病院、左側に遠くから見た刑務所」 、 写真:ポーランド芸術科学アカデミー所蔵のブロニスワフ・ピウスツキのアルバムから

"Córki osadników - uczennice Piłsudskiego razem z nimi w ogrodzie stacji meteo[rologicznej]"

「入植者の娘たち 測候所の庭でブロニスワフ・ピウスツキの弟子たちと」、写真: ポーランド芸術科学アカデミー所蔵のブロニスワフ・ピウスツキのアルバムから

カンチェルはマウィ・ティモフの刑務所に送られました。そこで彼は刑務所長の助手になりました。彼は囚人の仕事を上手に組織化できるので評価されていました。しかし雑誌「スヴォボダナヤ・ロシア・自由ロシア」から地元の人々は彼の暗殺での役割と彼がブロニスワフ・ピウスツキについて嘘の密告をしたことも知りました。彼はこの罪を許されませんでした。同法廷が設立され有罪者の彼には自発的な死刑が宣告され、これに関してプウォスキは「数日後カンチェルは2つの武器で自殺した。なぜなら彼は毒物とピストルで刑を自分で執行したのである。」と書いています。

Wioska Małotymowo

「マロティモヴォ村」 、 写真:ポーランド芸術科学アカデミー所蔵のブロニスワフ・ピウスツキのアルバムから

アンナ・マリア・ストゴフスカ、船で亡命。サハリンでのエドムンド・プウォスキ 、https://zeslaniec.pl/51/Stogowska.pdfに基づいて  

8–12月

ピウスツキは徒刑囚に課される労働(樹木の伐採搬出、その後は正教教会建設の手伝い)に従事。また役人やロシア人入植囚の子弟の家庭教師をつとめた。

ルィコフスコエ村とルィコフスコエ正教教会の聖障の写真。ブロニスワフ・ピウスツキ撮影。ポーランド芸術・科学アカデミーのコレクションより。

サハリンの先住民ニヴフ人たちの文化と初めて出会う。彼が書いているように、それは「島全体で唯一精神的に堕落していない共同体だった。〔中略〕私は死に絶えつつあるこれらの人々と親しくなり、彼らを接遇し、彼らに種痘接種を施し、読み書きを教え、官憲との関係では通訳であり代弁者であった。」

「アレクサンドロフスク管区からティミ管区へのギリヤーク一家の徒歩旅行」と「ボリシャヤ・アレクサンドロフカ川で魚を獲るギリヤーク人」。ブロニスワフ・ピウスツキのサハリン写真アルバムより。ポーランド芸術・科学アカデミーのコレクションより。

1888 年
10月5日

弟ユゼフ・ピウスツキが内務大臣にサハリン移転の請願書を提出するが、拒絶される。

1889 年
1月

ティミ管区警察本署で事務員として働き始める。

1891 年
1月

1889年にサハリンへ流刑となったロシアの民族学者レフ・ヤーコヴレヴィチ・シュテルンベルグと知り合う。この人物はアレクサンドロフスクからルィコフスコエ村を訪れていた。シュテルンベルグはピウスツキにニヴフ文化の体系的研究に着手するきっかけを与えた。

ロシアの民族学者レフ・ヤーコヴレヴィチ・シュテルンベルグ
5月 1日

ピウスツキは菜園での労働日誌をつけ始める(1892年3月20日まで)。この菜園は、同じ裁判で有罪の判決を受けた他の4人の政治犯と一緒に開墾したものである。彼らは一緒に協同農場を始めたが、それは短命に終わった。

1893 年
7月

おそらくこの年にブロニスワフ・ピウスツキはニヴフ人の語彙、伝統、文化の体系的な研究を開始した。

ニヴフ人の詩歌

ブロニスワフ・ピウスツキによって原語で筆記された、彼に捧げられたニヴフ人の詩歌。ブロニスワフ・ピウスツキによってラテン文字に転写され、ロシア語版から翻訳された。

「私のサハリン出立の前に、何人かのギリヤークが私に別れの挨拶をするためにルィコフスコエにやって来た。そして数人の女性が、自分たちが私に捧げた歌を書きとめてほしいと言った。この歌はピムカの妻によって口述された。これは、私の物質的な所有物によって私のことを判断した、まったくもって強欲な老女である。彼女はそれを「チヴィネンド トゥフス」と「チェカヌ トゥフス」と呼んだ。

チヴィネンド トゥフス(あなたを思う深い悲しみによってもたらされた言葉)

あなたは大陸へ行こうとしています。
私を見捨てて、行ってしまいます。
私はあなたが好きです。幼い少女たちと
大人の女たちが嘆き悲しんでいます。
でもあなたは喜んで行ってしまいます。
私は残念ですが、どうしようもありません。
あなたは思い立って、私を見捨てて、行ってしまいます。
残念ですが、どうしようもありません。
あなたは父親のようでした。私たちが空腹の時、
いろいろな食べ物を手に入れて食べられるようにしてくれました。
あなたは父親同然でした。
あなたが私を見捨てて行ってしまえば、
私が食べられるように誰が言ってくれるでしょう。
誰が私の食べ物代を払ってくれるでしょう。
私は心の中で考え続けます。あなたのことが残念でならないと。
でもあなたはそんなことは考えないでしょう。」

 

転写


Chi kektykh vinynd
Ninykh viinynd
Chi eeimund/ machkyn shank/
Ulyakhynd inyine/
Chvinefuro yanilio
Chi akh pkhohol’ khisvpin
Ynykh vijnyna/ kerifur
Ianile chvinyfur
Ianile pytyk kheta kyrykhar iuivo
Ian itiawkh nany/ nund nund itkh
Inuty/ ersh paranta/ chi nyn ynykh
Vijkhyi hynkra/ nat itygyn
Ininda/ nat chkha kish
Ininda/ koholi mikhish
Chvinefure/ hantokh ehrilio」

ピウスツキはもう一人の政治囚イワン・ペトローヴィチ・ユヴァチョーフとともにルィコフスコエ測候所で働いた。

1894 年
12月

当局のたっての依頼により、ハバロフスクの博物館のために植物の調査を引き受けた。山地への旅行の間に植物を収集し、植物標本集を作製した。

植物標本集の作製技術は、ヨーロッパで16世紀から知られていた。
1896 年
5月14日

皇帝の命令(皇帝ニコライ二世の戴冠式に際して発布)により、ブロニスワフ・ピウスツキの刑は三分の一短縮された(ピウスツキの父も1892年4月と1894年11月に息子の刑の短縮を訴える嘆願書を提出したが、それらは実を結ばなかった)。

7–8月

測候所を設営するため、サハリン南部のコルサコフ管区へ出張。そこでアイヌ人たちと初めて出会う。

1897 年
2月27日

刑期満了。ティミ管区ルィコフスコエ村へ農民身分で編入される。

5月

帝室ロシア地理学協会支部の「アムール地方研究協会」は、付設の博物館で働くためにピウスツキをウラジオストクへ移すよう請願を行なうが、事態が紛糾して決着しなかった。

1898 年
4月20日

民族学関係の処女作「樺太ギリヤークの困窮と欲求」を擱筆。この論文はハバロフスクの『ロシア帝室地理学協会プリアムール支部紀要』(4巻4分冊、1898年)に掲載された。

5–8月

ルィコフスコエ村の測候所で働く。ピウスツキの父は、息子がサハリン島からウラジオストクへ出立するための許可を再度嘆願する。

11–12月

「アムール地方研究協会」の運営委員会は、ピウスツキにニヴフのコレクションを入手するよう依頼し、そのために200ルーブルを彼に支払うことを決議する。

1899 年
2月

警察の監視下に一年間ウラジオストク市に滞在することを許される。3月中旬にウラジオストクに到着。「アムール地方研究協会」の資料管理人として、年600ルーブルの給料で働いた。

ウラジオストクの「アムール地方研究協会」(沢田和彦撮影)

「アムール地方研究協会」の博物館の代表として、ピウスツキは1900年のパリ万国博覧会に参加するために展示品を準備した。なかでも彼が調査活動の間に収集したサハリンのニヴフ関係158点を出展した。

1900 年

ブロニスワフ・ピウスツキはパリ万国博覧会で、極東地方のコレクションに対して銀牌を授与される。だが銀牌は彼の元には届かなかった。

3月

博物館のために必要な、優れた標本作製の専門家を雇うために、ピウスツキは自分に支給される年給の半額をカットすることを要請した。

1901 年

雇傭契約によって沿海州州立統計委員会で働き始め、その活動に積極的に関わる。

3月

チェーホフに著書『サハリン島』を「アムール地方研究協会」の図書館に寄贈してくれるよう書簡で依頼する。作家からは当該著作が寄贈された。

「アムール地方研究協会」の準会員に選出される。

5月

博物館を退職。


サハリンの教え子で最も聡明だったニヴフの少年インディンを、勉学継続のためウラジオストクに呼び寄せる。

インディン、クラクフの民族学博物館のコレクションより。
9月

「アムール地方研究協会」はピウスツキを月50ルーブルの給与で臨時再雇傭する。

1902 年
2月

民族学資料収集のため南サハリンへ行くべしという公式指令を受け取る。沿海州軍務知事はサハリン島軍務知事に、「ピウスツキは非難に値する点は何ひとつ認められず、現地の州庁に勤務している」と通知。

4月2日

父ユゼフ・ピウスツキ、ペテルブルグで永眠。享年69歳。

父ユゼフ・ヴィンツェンティ・ピウスツキ、スレユヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館のコレクションより。
7月5日

東清鉄道会社の汽船「ゼーヤ号」でウラジオストクを出立し、サハリンへ向かう。肺結核を発病したインディンも、故郷の島で養生させるべく帯同していたであろう。

ピウスツキの任務は、サハリン島のアイヌとウイルタの生活用品のコレクションを作製することだった。彼は旅行許可証、1,000ルーブルの出張費、「アムール地方研究協会」運営委員会から委託された民族学資料購入のための前金50ルーブル、カメラとエディソン式蓄音機を携えていた。

エディソン式蓄音機(アリツャ・フィルィノヴィチ撮影)
サハリン—地図上で場所を確認してください。
7月11日

コルサコフ哨所(旧日本名は大泊)に到着。

7月13日

シヤンツィ村(旧日本名は落合、現ドリンスク)へ行く。

7月16日 – 8月6日

西海岸のマウカ村(旧日本名は真岡、現ホルムスク)に滞在し、アイヌ人の人口調査を行い、蝋管蓄音機でアイヌの歌謡を録音した。

8月

コルサコフに戻る最後の手段として、函館へ向かう。函館で3週間ジョージ・デンビー(サハリンのマウカで操業する漁業家)の屋敷に逗留して、その息子と妻の森高夫妻の案内で市内や近郊を見物する。これがピウスツキの初来日だった。

ジョージ・デンビーについて

ジョージ・デンビーは1838年頃にスコットランドで生まれました。彼は当時の他の若いイギリス商人と同じ様に富と名声を求めてアジアへ旅立ちました。そして中国のチェフーで海藻を扱う小さな会社を経営し始めました。また海産物の貿易を行い北東アジアの港を多く行き来していました。彼はサハリン・ウラジオストク・カムチャッカ・函館・長崎へ最も頻繁に訪れていました。

デンビーは1870年代半ばにウラジオストク出身のユダヤ商人ジェイコブ・L・セメノフの会社と事業を合併してセメノフ・アンド・カンパニー社を設立しました。この頃彼はおそらく千島列島とサハリンの間の貿易に関する条約の規定を満たすためにロシアの市民権を取得したと思われます。

1870年代後半にデンビーは捕鯨を導入する関係で長崎にいました。そこで森隆哲(モリタカ・テシ)(1853年、隣町の喜喜津町(キキツ)生まれ)と出会い、テシはデンビーとの間に1879年から1888年に41女の5人の子供をもうけました。18964月に彼はテシに求婚してその翌月に結婚しました。一家は波の平(ナミノヒラ)で長崎の港を見下ろす高台にある大きな洋館に住んでいました。しかしデンビ―夫妻はほとんどの時間を北海道の実家で過ごしていました。

8月30日

函館からコルサコフ哨所へ戻る。

9月10–13日

サハリン島武官知事M. N. リャプノフと非公式に会見。ピウスツキが民族学調査を行っていた地域の先住民の人口調査を行う可能性について話し合った。ピウスツキはニヴフ語とアイヌ語の知識を有するゆえに、人口調査を行いうる理想的な人物と目された。

9月後半

オトサン村(旧日本名は小田寒、現フィルソヴォ)とセラロコ村(旧日本名は白浦、現ヴズモリエ)へ行き、初めて熊祭り(イオマンテ)に参加する。

熊祭りの絵。

ピウスツキが自分の未来の妻であり、二人の子供の母となるチュフサンマと初めて会ったのは、この時のことだろう。

11月14–24日

タコエ村とシヤンツィ村へ行く。それぞれの村でアイヌ子弟のための識字学校を開設。いずれも冬場に開校し、前者では18歳のインディン、後者では27歳のタロンヂ(千徳太郎治)が教師をつとめた。

千徳太郎治
11月24日

東海岸のロレー村(旧日本名は魯礼)へ行く。民話、歌謡、言い伝えを採録。「ハウキ」(英雄詞曲)を初めて採録。

12月

アイ村(旧日本名は相浜、後に他の村と合併して白浜となる)へ移り、バフンケ(日本名は木村愛吉)所有のロシア式丸太小屋の家で越冬する。バフンケはサハリンのアイヌ人の間でよく知られた人物だった。バフンケの家はこれ以後ピウスツキにとって恒久的な民族学調査の基地となった。バフンケの兄シレクアの娘チュフサンマは、この家によく逗留した。

右から三人目がチュフサンマで、助造を抱いている(1904年、バフンケの家の前)。ワルシャワ近・現代文書館のコレクションより。
1903 年

年初にシュテルンベルグから電報を受け取り、南サハリンでの調査の継続を依頼される。「中央・東アジア研究ロシア委員会」がこの目的のために資金を提供することとなる。ピウスツキは1903年度に700ルーブル、1904年度に750ルーブルを受領する。1905年度分は1,000ルーブルと算定されたが、調査は1905年6月に中断された。

2月1日 – 4月29日

3カ月間アイ村に滞在して、集中的にアイヌ語を学習。この間に半月間(2月15日−3月1日)ロレー村へ行って、アイヌの民話とハウキを翻訳した。バフンケ首長の愛姪チュフサンマとの恋物語は、この時期に出来したと推定される。彼女の名前は日本語の文献では時として「シンキンチョウ」と誤記されている。

2月 – 4月

インディンは肺結核が重篤化し、コルサコフの病院で息を引き取った。

4月24日

1902/1903年冬季のシヤンツィ村とオトサン村における識字学校の活動報告を執筆。

4月30日 – 5月16日

小船で東海岸沿いに南方のオブサキ(旧日本名は負咲)、オチョポフカ(旧日本名は落帆、現レスノエ)、トゥナイチャ(旧日本名は富内、現オホーツコエ)、アイルポ村(旧日本名は愛郎、現スヴォボードナヤ)を訪問。トゥナイチャ村でらから「ハウキ」や「オイナ」(神謡)を採録した。

アイヌ人の写真、クラクフの民族学博物館のコレクションより。

6月

調査の目的で日本語通訳・千徳太郎治とともに函館へ向かう。ピウスツキの主要備品はエディソン式蓄音機だった。

7月8–10日頃

函館港に到着。そこで帝室ロシア地理学協会の調査隊(隊長はヴァツワフ・シェロシェフスキ、隊員ブロニスワフ・ピウスツキ、通訳・千徳太郎治)は調査計画を策定した。

ヴァツワフ・シェロシェフスキ
8月2日頃

函館でピウスツキは路頭に迷うアイヌ人たちと遭遇。和人に騙されて、大阪から辛うじて函館までたどり着いた、白老の野村シパンラム(シバラン)ら一行だった。調査費から金を捻出して、野村らの帰郷を支援。これが機縁で調査団は、当初計画していた北海道北東部と北部ではなく、函館の東方にある白老村を訪ねることとなる。

8月

調査団は「肥後丸」で海路室蘭に到着。室蘭からは鉄路白老へ向かい、そこからアイヌ集落へ行った。彼らは8月末までシパンラムの家に客人として滞在し、調査を行なった。白老での滞在と、アイヌ人の生活と文化の詳細な描写は、後にヴァツワフ・シェロシェフスキによってその著『毛深い人たちの間で』(ワルシャワ、1938年)のなかで展開されることになる。

シェロシェフスキの本のタイトル頁。
8月末

調査団は列車で白老を出発し、平取(ピラトリ、現在はビラトリ)へ向かった。早来駅で下車。乗馬数頭と道案内を雇い、馬に乗って日高地方の原生林を踏破し、鵡川のアイヌ集落に到着、そこで一泊する。鵡川では、イギリスの宣教師にしてアイヌ研究家バチェラーの布教で長老派教会に帰依したプロテスタントのアイヌらが、バチェラーの札幌からの指示で調査団を出迎えた。白老から鵡川までの距離が30キロ、鵡川から平取までがさらに30キロ、併せて60キロである。

北海道の地図。
9月初旬

平取到着後、彼らはそこに約一週間滞在。日露関係の一層の悪化のため、函館のロシア領事の命令によって調査団は調査を中止した。

9月10日頃

調査団は札幌に到着。

9月12–15日

調査団は札幌に2、3日間滞在。ピウスツキはジョン・バチェラー宅に宿泊。バチェラーはこの事を彼の自伝の「珍客来る」と題する章で記している。

9月15日

調査団は札幌を出発。ピウスツキと千徳は函館に向かう。

9月19日

帝室ロシア地理学協会調査団は函館で解散。ピウスツキと千徳は半月ほど日本に滞在した後、サハリンのコルサコフへ戻る。

10月28日

サハリン島軍務知事ミハイル・N・リャプノフからピウスツキ宛の私信が届く。コルサコフ管区のアイヌについて詳細な資料と情報を収集、通知し、先住民統治規定草案を起草することを依頼。

ミハイル・ニコラエヴィチ・リャプノフ。
9月29日

アイ村の定宿へ戻る。

9月末

ブロニスワフ・ピウスツキとチュフサンマは、バフンケの首唱により盛大な結婚式を挙げる。

10月14日 – 11月29日

コルサコフ哨所に長期滞在。ナイブチに開設する識字学校のために資金や現物(学用品・図書)の寄付を募る。フォン・ブンゲ知事代行からは、支援金200ルーブルの約束を取り付けた。11月29日に東海岸のナイブチ村に到着。

12月2日

ナイブチ村に寄宿制学校を開設。千徳が教師を務めるかたわら、ピウスツキも教鞭を執った。注目すべき教育法は、アイヌ語をキリール文字で表記する形での作文指導である。千徳らは1906年に滞日中のピウスツキとの間で、この「文語」を駆使して文通した。

12月18–20日

生徒たちを引率してアイ村へ赴き、バフンケと共催した「狐送り」の儀式を見学する。

1904 年
1月21日

「学問の利益となる業績に対して」、帝室地理学協会から銀牌を授与される。

ピウスツキとシェロシェフスキの主要コレクションは、現在ロシア科学アカデミー人類学・民族学博物館に保存されている。

1月26日

日露戦争開始。ナイブチの寄宿制学校は閉校となった。

2月12日

チュフサンマ、ピウスツキの長男・木村助造を出産。

3月31日 – 11月13日

戦時下にもかかわらず、前年6月に急遽中止した北サハリン踏査を敢行する。犬橇でアイ村を出発し、東海岸を北上。4月5日に最北端のナヨロ村(旧日本名は内路、現ガステロ)に到着。翌日にタライカ湖近辺のチフメネフスク哨所(旧日本名は敷香、現ポロナイスク)へ移る。

犬橇の写真、ドゥルスキニンカイ市博物館のコレクション(www.druskininkumuziejus.lt)より。
4月6日 – 6月12日

タライカ地方に逗留してアイヌ、ウイルタ調査に従事。またナヨロ村にも滞在した(4月22日 – 5月4日、5月22日 – 6月1日)。

7月8 – 30日

弟ユゼフ・ピウスツキはティトゥス・フィリポヴィチとともに、〈夕べ〉秘密作戦の一環として東京に滞在。ユゼフは日露戦争のポーランド人俘虜で軍団を組織して、満洲戦線へ投入することを考えていた。彼は日本の外務省や参謀本部と掛け合うが、この案は成就しなかった。

6月13日 – 10月7日

調査を継続。チフメネフスクから小船でポロナイ川を遡上し、陸路ティミ川上流地域に行って、峡谷のそばに位置するニヴフ居住地で調査を行う(7月13日 – 8月9日)。またティミ管区のロシア人村落オノール(6月24日 – 7月8日、9月2 – 25日)とルィコフスコエ村(8月10日 – 9月1日)に滞在した。

8月

1903/04年の冬にナイブチで実施した識字学校の活動報告をルィコフスコエ村にて擱筆。

日本領事館がブロニスワフによって設立された学校に贈った贈り物の 1 つは、いわゆる煉瓦茶でした。

磚茶
9月28 – 29日

ポロナイ川を下り始めるや、猛烈な台風に遭遇。舟が転覆するが、九死に一生を得る。

10月7日

ナヨロ村に滞在。当初の予定では同村で熊祭りに参加し、またナヨロのアイヌやチフメネフスクのウイルタの子弟のために識字学校を開設するはずだったが、戦時下の混乱でいずれも実現しなかった。

11月13日

家族の待つアイ村に帰着。

11月16日

コルサコフ哨所へ出発し、集中的に調査を行う。そこで人心の動揺、飢餓、物価高騰を目の当たりにしたピウスツキは、予定していた西海岸調査を断念。離島して大陸に居を移すことを考え始めたのも、この頃のことだろう。

11月末

オトサン村とセラロコ村の熊祭リへ行く。

1905 年
1月27日 – 2月9日

シヤンツィ、ナイブチ、アイ、オトサン村を歴訪。

2月10 – 23日

最後のコルサコフ滞在。戦争が島にも及び、日本軍が上陸することを予測して、残務整理、即ち、収集した民族学資料の発送と保全措置、採録したテキストの翻訳、統計データの収集、資料作製
者らとの清算などに奔走する。

同じ時期、国中で革命へとつながる騒乱が既にロシアで進行中で、極東地方もその例外ではなかった。

2月23 – 26日

ウラジミロフカ村(旧日本名は豊原、現ユジノ・サハリンスク)に滞在。旅に携行する食糧品を辛うじて入手した。

3月5日

アイ村で妻のチュフサンマと息子の助造と会う。おそらくピウスツキは二人に別れを告げ、将来彼らを連れに戻ってくる計画を話したことだろう。

3月6日

オトサン村に到着。友人のシャーマンが別離の交霊をしてくれる。

3月28日– 4月13日

オノール村に滞在。ミハイル・N・リャプノフ知事に依頼された「アイヌの習俗整備と統治に関する規定草稿」を擱筆。これは少数民族の自治という新しい概念を掲げたものだった。

4月13日 – 5月12日

ルィコフスコエ村に滞在。「サハリン島の個別アイヌ村落に関する若干の情報」と「アイヌの習俗整備と統治に関する規定草稿(前にリャプノフ知事に提出したものの修正稿)」、そして1904/1905年の冬に行った識字教育の報告書を擱筆した。

4月30日

ピウスツキから市民権を剥奪した刑の満了。両首都を除く希望の居住地を選択することが許可され、帰郷も可能となる。

5月12 – 30日

デルビンスコエ村(現ティモフスク)に滞在。

6月11日

アレクサンドロフ港を小蒸気船で出発。

6月12日

アムール河口のニコラエフスク市に安着。かの地に10日ほど滞在する。ハバロフスクへの途上でマリインスク(ウリチ人が居住)に立ち寄り、アムール川流域に在住するアイヌ人たちの消息を訊ねる。

7月初旬

ハバロフスクに到着。

7月14日

「中央・東アジア研究ロシア委員会」のW. ラドロフ議長宛に、現状報告書を書き上げる。

8月初旬

ウラジオストクに戻る。

8月5、12日

「アムール地方研究協会」の準会員として、同協会の援助のもとにサハリンで行った調査の結果について2本の講演を行なう。

8月23日

ポーツマスで日露講和条約調印。

9月中旬

ピウスツキは家族を連れて、最初は鉄道でヨーロッパへ帰ることを考えていた。そのために切符を入手しようとしたが、受け取ることはできなかった。陸上輸送システムが崩壊した後、彼は計画を変更して船で帰ろうと考えた。ピウスツキは既に日本占領下にあるアイ村を訪れて、チュフサンマと助造と会う。チュフサンマの家族はチュフサンマと助造の出立を許さなかった。ピウスツキは家族と別れ、これが永遠の訣別となる。

10月初旬

神戸に来て、ニコライ・ラッセル(ニコライ・スジローフスキー)の事務所を手伝う。

ニコライ・ラッセル(スジローフスキー)の写真
11月

「アムール地方研究協会」の委嘱により、ニコラエフスク・ナ・アムーレに戻って、アムール川流域のトロイツコエ村でナナイ人の資料を収集する。

伝統的な衣装を纏ったナナイ人一家
11月5日

ハバロフスク市住民集会に参加して演説し、「労働ビューロー」設立を提案して、そのために100ルーブルを寄付する。

12月4日

ウラジオストクから船で日本へ出発。ロシアを永遠に去る。

12月18日

アイ村で長女・木村(結婚後は大谷)キヨ誕生。

1906 年
1月初旬

東京に到着。

1月6日頃

『報知新聞』記者の取材を受ける(「浦塩よりの二珍客」『報知新聞』1月7日。転載「浦汐より二人の珍客」『北海タイムス』1月10日)。築地の「セントラルホテル」に仮住まいをする。

1月中旬 – 7月上旬

商店「箱館屋」(東京市京橋区尾張町)の2階に居を据える。東京滞在中、日本のアイヌ研究家、社会主義者、女性解放運動家、音楽家、民報社と関わりのある黄興、宋教仁のような中国人革命家、ロシア人亡命者たちと親しく交流した。ピウスツキについて新聞記事「露国人類学者」(『東京朝日新聞』2月8日)、「日本婦人の研究(波蘭人ピルスドスキー氏)」(『報知新聞』3月9日)、「外人の日本婦人研究」(『北海タイムス』3月20日)が載る。

ポーランド文学を日本で普及させるために、二葉亭四迷と「日本・ポーランド協会」を設立する。

6月19日

ピウスツキと二葉亭、東京・本郷の「中黒写真館」で記念写真を撮る。

本郷の「中黒写真館」で二葉亭四迷と撮った記念写真、クラクフ国立文書館のコレクションより、整理番号は [Bronisław Piłsudski], ref. no. 29/645/0/-/435。
6月

肉親がピウスツキにパリ経由の電信で長崎の住所宛に500−600ルーブル(帰国旅費)を送金したが、彼は受け取れなかった。元々送金した場所であるクラクフで後に受け取る。

7月初旬

東京を去って長崎へ行き、稲佐地区の志賀親朋(ロシア領事館の被雇用者)の家に住む。

7月10日

アイヌに関する最初の学術論文、上田将訳「樺太アイヌの状態」(上)が京華日報社の雑誌『世界』第26号に発表される。これは、前年に執筆されてこの翌年にウラジオストクで発表された「樺太アイヌの経済生活の概況」の縮刷版からの翻訳である。

7月30日 – 8月16日頃

アメリカの大北汽船株式会社の「ダコタ号」で長崎を出発。神戸、横浜に寄港して、一路シアトルへ向かった。船上で大いに仕事をする。後に「樺太アイヌの状態」(下)が雑誌『世界』第27号に発表される。

8月16日頃 – 10月21日頃

「ダコタ号」、シアトルに到着。大陸横断鉄道で合衆国東部へ旅を続け、シカゴ経由でニューヨークに到着。そこから大西洋を渡ってヨーロッパに着き、ロンドン、パリ経由でクラクフに到着する。

10月21日頃

クラクフに到着し、その後弟ユゼフの滞在するザコパネへ向かう。19年ぶりの兄弟再会。

パリにいるブロニスワフに宛てたユゼフの書簡からの抜粋
「親愛なるブロニシ!ついに!とうとう僕のすぐ近くまで帰ってきたね。兄さんがこの手紙を読んだら、僕はもう我慢できない。〔中略〕住所はザコパネ、ノヴァタルスカ、フィツ・オレシアク、ピウスツカ。もう一つの住所は、トポロワ16、クラクフ、ピウスツカです。〔中略〕兄さん、急いで、時間を無駄にしないで。僕は兄さんを待っているんだ。兄さんはすごく遅いよ…」

11月7日

クラクフに戻る。翌年5月までこの町を拠点にする。

11月20日

1905年10月21日付のサハリン島知事の勅令により、官憲の監視と首都居住の権利に対する制限から解放され、裁判で剥奪されたすべての権利が復権された。ピウスツキ家の領地や資産の相続権を回復し、ロシアの首都にも住めるようになった。

11月21日

二葉亭四迷に書簡を送り、マリア・ジャルノフスカ(旧姓バニェヴィチ、ブロニスワフの初恋の相手ゾフィア・バニェヴィチの妹)に言及する。マリア・ジャルノフスカは夫と別れ、夫と一人息子をサンクト・ペテルブルグの自宅に残していた。

クリスマス週間にヴィリニュスに在住する末妹ルドヴィカや従叔母ステファニア・リップマンが、相次いでブロニスワフ・ピウスツキを訪ねる。

年末にペテルブルグ在住の弟カジミェシュが、兄の求めに応えてマリア・ジャルノフスカの住所を手紙で伝える。

1907 年
5月17日

マリア・ジャルノフスカがクラクフに到着し、ブロニスワフ・ピウスツキと20年ぶりに再会する。

6月初旬 – 7月後半

ジャルノフスカを伴ってチェコの保養地カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名はカルルスバード)で静養。

ブロニスワフ・ピウスツキとマリア・ジャルノフスカの写真、ザコパネのティトゥス・ハウビンスキ博士記念タトラ博物館のコレクションより。
8月

暫くクラクフに戻った後、ザコパネで治療を継続。ここに8カ月逗留。ブロニスワフとマリアは当初、学生用ホステルに投宿するが、11月以降はクルプフキ通りのゲストハウス「ヴィラ・ヒュゲア」で愛の巣を営む。

「ヴィラ・ヒュゲア」の絵葉書
ピウスツキとヴィトキェヴィチの関係
「親愛なるおじさん」。ブロニスワフ・ピウスツキとスタニスワフ・ヴィトキェヴィチの関係

1906 年 10 月、2 人のピウスツキ兄弟は 19 年ぶりに初めて再会した。それは、ブロニスワフが極東での長年にわたる流刑と定住から戻った直後に、ユゼフの招きで到着したザコパネでのことである。その後の 8 年間以上、ガリツィアは民族学者の新しい家となり、彼は長期、短期の旅行からそこへ戻ってきた。

彼は最初の 2 週間を弟とその妻マリアと一緒に過ごした。ここから、そして後にクラクフから彼は手紙を書き、その中で自分の気持ちを姉にこう打ち明けている。「親愛なるズーレチカ、ここで僕はついに…自分の身内の人々に囲まれています。僕が過去も現在も憧れていた新しい生活が本当にすでに始まったことが、僕には奇妙に思えます。この誠実な祖国は、私たちのリトアニアのようにここにはありませんが〔…〕、それでも常にヨーロッパなのです。これはポーランドなのです」。彼は尊敬される教授で元流刑囚のベネディクト・ディボフスキに帰国したことを知らせ、また日本の二葉亭四迷に手紙を送って、仕事を始めようとしていることを告げた。
10 月から 11 月にかけての変わりめに、ブロニスワフはザコパネで 7 年間運営されていたタトラ博物館を訪れた。当時は木造2階建ての建物内にあり、小さな気象観測塔と、自然界と観光の物品を展示した2部屋から成っていた。時間が経つにつれて、新しい地所の必要性が生じた。

1912年にザコパネでスタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチ=ヴィトカツィが撮影したブロニスワフ・ピウスツキの写真。スレユヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館のコレクションより。ヴィトカツィは、父スタニスワフ・ヴィトキェヴィチとの文通に添付された写真のみによって知られる「おじさん」の肖像画も描いた。

19 世紀末にザコパネは、ワルシャワの医師ティトゥス・ハウビンスキによって、「胸部疾患」の治療の場としてその価値が宣伝されたおかげで、自然発生的な成長を遂げた。それは 3 つの分割地域からポーランドの知的エリートを集めたが、主にクラクフ、リヴィウ、ワルシャワからの人々だった。文化生活の基調は、そこに定住した芸術家たち、とりわけスタニスワフ・ヴィトキェヴィチによって形成された。結核の治療例に惹かれた彼は、1886 年にこの場所を訪れ、4 年後に定住した。 1908 年に彼はロヴランに移り、そこで7 年後に亡くなった。

最初の数週間のザコパネ滞在時に、ブロニスワフ・ピウスツキはスタニスワフ・ヴィトキェヴィチに会うことができた。ヴィトキェヴィチ家とピウスツキ家は親族関係にあったようだ。多くの著者がその親族関係の問題を明らかにしようとした。リトアニア問題の専門家スタニスワフ・ツァト=マツキェヴィチの言葉、「リトアニアのすべての地主一家は血縁関係にあり、愛国心が強い」が、その結論であろう。いずれにせよ、双方で培われた家族の絆への信念は、両者の関係をはるかに容易にした。後にブロニスワフはスタニスワフ・ヴィトキェヴィチ宛の手紙で、彼のことを「親愛なるおじさん」と呼び(2人はわずか15歳しか離れていなかった)、自分のことを「甥」と署名した。スタニスワフの息子ヴィトカツィは、ブロニスワフを同じように呼んだ。

当時、スタニスワフ・ヴィトキェヴィチは、ポトハレ山岳民地域の問題に関する疑いの余地のない権威だった。ブロニスワフはヴィトキェヴィチの『峠にて タトラの印象とイメージ』(1890 年、クラクフ、「ゲベスナーとヴォルフ」出版社)を読んで、ポトハレのフォークロアに興味を持つようになった。ザコパネ様式の発案者は、「甥」が民族学の分野で幅広い知識とスキルを備えていることを看破したため、ガリツィア南西部だけでなく、当時ハンガリー領だったスピシュと、オラワに住むポーランド人山岳民の調査を引き受けるよう彼を説得した人間の一人となった。この地域でプロジェクトを実施している間、ブロニスワフは「叔父」の権威による支援と円滑化に頼ることができた。ヴィトキェヴィチはタトラ博物館協会にこう書いている。「私は、ザコパネのティトゥス・ハウビンスキの名にちなんだタトラ博物館のコレクションを拡充するために、ポトハレの芸術品、備品、衣服などをブロニスワフ・ピウスツキ氏の裁量で購入するために、ヴウォジミェジョヴァ夫人やヂェドゥシツカ伯爵夫人によって提供された資金を使う権限をピウスツキ氏に授与します。」

スタニスワフ・ヴィトキェヴィチの写真。ザコパネのティトゥス・ハウビンスキ記念タトラ山系博物館のコレクションより

ピウスツキとヴィトキェヴィチの協力と意見交換は、ヴィトキェヴィチがロヴランに移った後も続いた。これは、ブロニスワフから「親愛なるおじさん」への手紙(2016 年にザコパネのタトラ博物館とスレユヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館によって出版された)によって証明されており、それらの手紙の中で彼は自分の業績を報告し、ロシア、日本、米国、ヨーロッパ諸国で見た博物館の建物についての観察を伝えている。これらのコメントのおかげで、タトラ博物館の建物の設計者は、この問題についてより広い視野を持つことができたに違いない。ブロニスワフ宛の手紙は見つかっていない。

1908年のタトラ博物館の建物。

ヴィトキェヴィチに触発されて、ピウスツキは南の国境地帯で多面的で有用な活動を展開した。 1912年から1914年にかけて「おじさん」との文通によって助言を受けたアイデアの多くは、学術定期刊行物の創刊を含め、彼の後継者たちによって実行に移された。『ポトハレ年報』はタトラ博物館に受け継がれ、今日まで出版されているが、これはわが国で最も興味深い地方出版物の一つである 。ブロニスワフ・ピウスツキの記事が掲載された創刊号は、こちらから見ることができる。

ブロニスワフ・ピウスツキとポトハレのつながりは、2000 年にザコパネのペンクソヴィ・ブジゼクにある顕彰墓地に建立されたシンボリックな墓によって記念されている。この墓は、「親愛なるおじさん」スタニスワフ・ヴィトキェヴィチの墓の隣に建立された。

スタニスワフ・ヴィトキェヴィチの『峠にて』からの挿絵。

典拠

アントニ・クチンスキ編『親愛なるおじさん ブロニスワフ・ピウスツキのスタニスワフ・ヴィトキェヴィチ宛の手紙』ザコパネ—スレユヴェク、2016年。(ポーランド語)
イェジ・M・ロシュコフスキ「ヴィトキェヴィチ家とピウスツキ家 相互関係」『ポトハレ年報』第11巻、2016年、87–99頁。(ポーランド語)

1 S・ツァト=マツキェヴィチ『ピウスツキへの手がかり』クラクフ、「ウニヴェルシタス」社、2013年、18頁。(ポーランド語)

ピウスツキ家の4兄弟がタトラ山中で家族会議を催す。出席したのは、ヴィリニュスから訪れたヤンと妻マリア、ユゼフと妻マリア、ペテルブルグから来たカジミェシュ、そしてブロニスワフとマリアである。

10月22日

マリア・ジャルノフスカはザコパネを後にし、サンクト・ペテルブルグへ戻る。ブロニスワフは彼女に数多くの手紙を書き送る。その一通で彼女にリヴィウ市で一緒に生活を始めることを提案している。

この年、「樺太アイヌの経済生活の概況」と「サハリン島の個別アイヌ村落に関する若干の情報」がウラジオストクで発表された。

1908 年
1月後半

マリア・ジャルノフスカがザコパネに戻り、二人はゲストハウス「ヴィラ・ヒュゲア」に逗留した。

3月

ピウスツキとジャルノフスカはリヴィウに移り、トゥレツカ通り3番地に新居を構える。おそらく彼の生涯でもっとも幸せな時期の一つだっただろう。ピウスツキはアイヌ・コレクションから8本の蝋管と写真を数葉売却した。この地でベネディクト・ディボフスキと共同研究を行う。ピウスツキはこの人物とまだサハリンにいた時に文通していた。ジャルノフスカは声楽のレッスンに通って、プロの歌手を目指した。彼女は病気、即ち乳癌のためにレッスンを取りやめた。

1909 年

マリア・ジャルノフスカ、乳癌手術を受けるべく、ペテルブルグに戻る。転移もあることが判明。

1909年8月–1911年1月

リヴィウの有力紙『リヴィウ日刊』の通信員の身分で、西欧諸国を歴訪する。アイヌの工芸品や、フォークロア・テキストを収録した蝋管も売却用に携えていた。

1909年11月–1911年5月

パリに滞在。(たいていはカルチエ・ラタンで)転々と居を移しながら、図書館通いを続け、ソルボンヌ大学の聴講生にもなっていたようだ。マリア・スクウォドフスカ=キュリーなどのポーランド知識人たちと交際する。

1910 年
2月

クラクフまで往復し、マリア・ジャルノフスカを治療のためにパリに連れてくる。ラジウム線を用いての放射線療法も試みられた。

4月

マリアは病状が悪化して、再手術が必至となる。彼女は自らの意思でパリを離れ、それまで別居していた夫が彼女を自宅に連れ戻して、その世話をした。

6月初旬

ピウスツキはロンドンに到着。英日博覧会で「アイヌ村」を実演する、北海道沙流地方から来た男女4人ずつと子供のアイヌ人たちから、50以上の物語を採録する。また幾つかのアイヌ工芸品や蝋管の売却にも成功した。

1911 年
1月末

パリ経由でクラクフに戻り、シュラク通り31番地の弟ユゼフのアパートに住む。

4月

リマノヴァで元サハリン流刑囚エドムンド・プウォスキを訪問。ピウスツキはアレクサンドロフスク到着直後にこの人物と会っていた。

6月26日

マリア・ジャルノフスカ、ペテルブルグで死去。

9月20日

ザコパネからほど遠からぬポトハレ地方の大地主ヴワディスワフ・ザモイスキ伯爵に招かれて、石鹸店の真上にある、クジニツェの家政女学校の4号室に逗留する。

まさしくここでピウスツキは、クラクフの科学アカデミーのヤン・ロズヴァドフスキ教授監修による主著『アイヌの言語とフォークロア研究資料』の出版準備を進めたのである。

11月25日

ザコパネ・ハヤブサクラブのホールでピウスツキの発議によってタトラ協会民族学部会が発足し、その定款と綱領が採択された。ブロニスワフ・ピウスツキはその部会長に選出された。部会の本部は「タトラ・マンション」に置かれていた。ピウスツキは自分が収集した工芸品を展示するために、タトラ博物館の新館を建設する計画を立てた。

リトアニアのもっとも著名な画家の一人、アドマス・ヴァルナス(1879–1979)がステファン・ジェロムスキの家でアイヌ衣装をまとったピウスツキの肖像画を描いた。画家との会話でブロニスワフはいわゆるリトアニアの十字架の件について議論した。リトアニアの十字架について彼は1916年に論文を書くことになる。ヴァルナスは写真アルバムを制作した。

1912 年
4月中頃

コルニウォヴィチュフカに移る。友人タデウシュ・コルニウォヴィチの持ち家で、クジニツェとザコパネの中間に位置するブィストレの、ヤシュチュルフカに至る道路2番地(現オスヴァルダ・バルゼラ通り4番地)にあった。ピウスツキはザコパネ滞在の最後までここに住んでいた。ステファン・ジェロムスキの妻オクタヴィアと息子アダムもこの家に住んでいて、ステファンも時々訪れた。30年後にこの家の屋根裏部屋で、ピウスツキの残した蝋管が発見された。この年、ジェロムスキはピウスツキを、短編『生きることの素晴らしさ』の主人公の一人、グスタフ・ベズミャンとして描いた。

10月

博物館事情視察のためプラハへ旅立つ。恐らくスロヴァキアのマルティン、チェコのヴィノフラディ地区にも逗留しただろう。

12月

クラクフとザコパネを駆け抜ける。その後、系統立った民族学研究を開始するためにスイスのヌーシャテルへと向かう。

アルノルト・ファン・ヘネップの写真。

出発前に民族学部会の部会長職辞任を唐突に申し出るも、受け入れられなかった。ピウスツキは国外から送付する手紙によって、その職責を全うし続けることになる。

クラクフで主著『アイヌの言語とフォークロア研究資料』がポーランド学芸アカデミーから刊行される。

『アイヌの言語とフォークロア研究資料』のタイトル頁、北海道大学附属図書館のコレクションより。

ザコパネでスタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチが、ポトハレのガラス絵を背景としてピウスツキの肖像画を描く(絵は紛失し、その写真のみが存在する)。

ヴィトキェヴィチによる失われた絵を撮影した写真の写真。
1913 年
1月3日–5月

5月までヌーシャテル大学の聴講生となる。

5月初旬 – 7月10日

パリに滞在。

6月25日

タトラ協会宛に手紙を書くが、そこには「ギネット=ピウスツキ」という署名が初めて見出される。ギネット家はリトアニア大公家に連なる由緒ある家柄で、ピウスツキ家の本家筋に当たる。ピウスツキは自分をリトアニアとポーランドを結びつける者と見なしていた。

7月10日 – 10月

ベルギーのブリュッセルに滞在。ソルヴェー研究所で仕事をする。

8月3日

タトラ博物館新館の起工式典が挙行される。ブリュッセルにいたピウスツキは欠席。

10月

ザコパネ郊外のブィストレに帰還する。民族学部会長として、郷土誌研究の組織化と推進に本腰を入れる。守備範囲は後にオラヴァ、スピシュ地方へと広がっていく。加えて、ピウスツキはタトラ協会の幹部でもあり、また創刊が決まった雑誌『ポトハレ年報』の編集主幹もつとめた。

1914 年
3月

クラクフのポーランド学芸アカデミーが民族学委員会を新設し、ピウスツキはその書記に任命される。これは年俸600クローネの、同委員会では唯一の有給職員だった。ヨーロッパでの7年間で彼が得た初めての定職であり、定収入だった。

ピウスツキは『ポトハレ年報』創刊号の編集作業を完了させた。この創刊号は1921年にようやく刊行されて、巻頭にはヴァツワフ・シェロシェフスキの手になるピウスツキの追悼文が掲げられている。

『ポトハレ年報』1921年のタイトル頁。
6月末

ブリュッセルに滞在。

8月5日

第一次世界大戦が勃発。

12月初旬

ウィーンへ脱出し(クラクフ当局の命令により、ピウスツキはロシア軍の進駐の恐れのある町に、ましてパスポートなしで留まることを許されなかった)、シンドレルガッセ44番地の家に落着く。1915年4月まで4カ月以上滞在。

『ポーランド百科事典』編纂の仕事に関わる。その課題は、亡国ポーランドの実情を世に知らしめることだった。『ポーランド百科事典』の編纂はウィーン、ワルシャワ、ローザンヌで別途に進行していた。それらの仕事のまとめ役として、ピウスツキに白羽の矢が立てられたのである。

ポーランド百科事典への取り組み

第一次世界大戦が勃発すると、ブロニスワフは独立を回復するための平和的な活動の潮流に加わった。戦争で破壊されたガリツィアを去った他のポーランド人たちと一緒に、彼はウィーンに行った。そこで1914年の秋、ヴワディスワフ・バンドゥルスキ司教の指導の下、 「ポーランド その過去と未来についてのこと」という著作を準備しようという考えが閃いた。ブロニスワフは、この取り組みの重要性を認識し、実行の最初の段階で重要な役割を果たした。

ヴァツワフ・シェロシェフスキは次のように書いている。「私は1915年にウィーンでブロニスワフに会った。そこで彼はW. バンドゥルスキ司教とともに、ポーランドの権利と窮乏と富を世界に知らしめるために『ポーランド百科事典』編纂の仕事をしていた。私たちの困窮と権利は、私たち自身の組織化された力によってこの世界に伝えることが最善であり、弟のユゼフがそうするためにはるかに適切で手短な方法を選んだことをブロニスワフに指摘した時、彼は苦しそうにこう答えた。『そう、私は…私にはできない!それぞれがそれぞれのできる方法で力を尽くすのです…』彼は弟を褒め、とても愛し、限りなく信頼していたが、…しかし入隊はしなかった。それでも彼は勇敢な男だった。私たち共同の冒険行で私はそのことを一度ならず経験した。彼は非常に謙虚で、必要に応じて自己を犠牲にする人間だった…しかし、繰り返すが、彼はあまりにも善良で、優しすぎて、この世界の犯罪を火と鉄で焼き尽くすことはできなかった!」1

1915 年 3 月、待望のオーストリアのパスポートを手にして、ピウスツキはスイスへ旅立った。そこで彼は、『ポーランド百科事典』について着手した作業を統合することになっていた。これは、ポーランドの大義を国外で広めるための彼の最初のイニシアチブだった。彼は国家最高委員会の執行委員会によってラッパースヴィルに派遣されたようだが、彼がいかなる具体的な任務を負うことになっていたか、またどのようにそれらを遂行したかは定かでない。スイスでブロニスワフは百科事典の協力者たちと共にいた。これは、ジャーナリスト、政治家、外交官であり、『ポーランド小百科事典』の創始者であるエラズム・ピルツの招きによるものだったであろう。

1915 年 3 月 31 日にウィーンの帝室・王室警察本部によって発行されたブロニスワフ・ピウスツキのパスポート。ユゼフ・ピウスツキ家財団のコレクションより

ヨーロッパの諸言語でポーランドについて記事を書き、百科事典の出版物を編集し、出版し、広めるという考えそのものは、いくつかのサークルで生まれた。 1914 年から 1915 年への変わり目に、このような出版のアイデアがワルシャワ、パリ、ローザンヌ、ウィーンで生まれた。それ自体の仕事の出版が一番早かったのはパリで、資料はローザンヌに渡された。ワルシャワのプロジェクトは独立して機能し、最終的にアウグスト・ザレスキ (後にベルサイユ平和会議の参加者、外交官、亡命ポーランド共和国の大統領) によって管轄された。ザレスキはロンドンのポーランド広報委員会の委員長を務め、ロマン・ドモフスキと激しく戦った。ワルシャワ・ロンドンのイニシアチブは、部分的な記事を英語で出版することで終わり、終戦後にローザンヌでフランス語版で『ポーランド その歴史、組織、生活』、ベルンではドイツ語版で『ポーランド 開発 現状』として出版された。三つ目のプロジェクトは、ヴワディスワフ・バンドゥルスキ司教がウィーンで主導した。当時のリヴィウ大司教区の属司教で神学校の学長は、ユゼフ・ピウスツキの熱狂的な崇拝者だった。彼は、ポーランドの政治制度と法の歴史を研究するオズワルド・バルツァーや、リヴィウ大学の教授で弁護士でもあるスタニスワフ・スタジンスキ―憲法、選挙法、行政法の卓越した専門家―のような、リヴィウ出身の他の人々を自分の周りに集めた。リヴィウ大学の地理学教授であるエウゲニュシュ・ロメルも、ウィーンのイニシアチブに協力するよう招かれた。ピルツの推薦によりブロニスワフ・ピウスツキは、準備中の百科事典の地理部門の項目を執筆してくれるよう、公式に彼に依頼した。しかし、ロメルの仕事は意図した枠組みを超えたため、その項目は学位論文の形で「J. サリウシュ」というペンネームのもと『ポーランド 土地と国家』として別個に出版された。そして準備中の百科事典のための適当な記載は、エドワルド・ヤンチェフスキによって作成された。ピウスツキは ロメルがスイス国外で学位論文を出版しようとする試みを支援したが、残念ながら成功しなかった。バンドゥルスキ司教の上記の仕事を出版するというイニシアチブは、最終的に資金不足のため失敗に終わった。そこで彼は、この取り組みをピルツの構想と組み合わせることを提案した。収集された資料はすぐにローザンヌに移され、そこでローザンヌ版と呼ばれる小百科事典と、フリブール版と呼ばれる大百科事典の、2つのポーランド百科事典を出版するプロジェクトが生まれた。

ブロニスワフ・ピウスツキは1915 年 8 月中旬から、編集チームの正会員として「ローザンヌ百科事典」(別名「エラズム・ピルツ百科事典」)の作業に参加した。彼は出版のためにいくつかの項目を準備するよう依頼された。「天然資源」と題された 第2部で、彼は鉱泉と保養地について詳しく説明することになっていた。ポーランド語のテキストは 1916 年 1 月の初めに準備が整い、タイプ打ちで5 頁になったが、教授の 1 人が校閲と補足を行った後、フランス語の翻訳者に送られることになっていた。「住民」と題された第3部では、第1章で考古学に関するテキスト(タイプ打ち7頁)の著者として想定され、第2章「民族学」では37頁のタイプ原稿から成る資料を作成した。さらにピウスツキは第20部(「リトアニアとルテニア」)の「経済概説」、および次の第21部「農業」、第22部「産業」、第23部「貿易と通信」も割り当てられた。著者は、以前に収集した資料に基づいて、2 週間以内にテキストを準備することになっていた。百科事典の作業は速いペースで進められたが、一人の著者にとってそれが過重負担でなかったかどうかは不明である。

おそらくピウスツキは、サハリンへの流刑によって中断された学業を、フリブールで修了したかったのだろう。一方、スイスでの亡命生活の渦は、彼を伝統的な「ポーランド地獄」に引きずり込んだ。「ウィーンとローザンヌとパリ」のポーランド人の相闘うグループは、多くの問題を引き起こし、貴重な時間を奪い去った。ブロニスワフは、「ヨーロッパの政治家と外交官が使う」ために出版するポーランド百科事典作成の共同作業で、これらのグループを結びつけることができるだろうと考えた。その純真さゆえに、彼は孤独のままだった。彼には自分の考えを実行に移すだけの強さがなかったので、さまざまな人に頼ってそれを引き受けてもらおうとした。彼は戦争犠牲者救済シェンキェヴィチ委員会の活動に参加し、「より厳格なリトアニア支援委員会」を設立した。彼がフリブールで最もうまくやったのは、戦争の結果貧困に陥っていたポーランド人研究者援助委員会による資金集めだった。

スイス滞在中のピウスツキの活動は肉体的疲労を引き起こしたが、何よりも彼の精神的回復力を衰退させた。政治問題、会議、評議会、議論、マスコミの論争は、彼の人柄にとって適切な環境ではなかった。1917 年 11 月、ピウスツキはパリに向けて出発し、ポーランド国民委員会の職員として働き始めた。

エウゲニュシュ・ロメル。

ポーランドに関する大規模な百科事典は完成しなかった。フランス語で出版されたその断片は、ベルサイユ平和会議で有用であることが証明された。

典拠
ブロニスワフ・パシェルブ「ブロニスワフ・ピウスツキ(1866–1918)—大きな政治との出会い—」『政治と社会』、2011年8月(ポーランド語)
ヤン・スタシェリ「ブロニスワフ・ピウスツキとクラクフの芸術・科学アカデミーとの関係」『ブロニスワフ・ピウスツキ 人間—学者—愛国者 ティトゥス・ハウビンスキ記念タトラ博物館協会資料』第11巻(ポーランド語)
ヤン・スタシェリ、ハリナ・フロルコフスカ=フランツィチ「ブロニスワフ・ピウスツキの最後の数年 1915–1918 年(スイス—パリ)」(ポーランド語)

1 W. シェロシェフスキ「ブロニスワフ・ピウスツキは1866 年にシフェンチャヌィ郡ズーウフで生まれ、1918 年にパリで死去した」『ポトハレ年報』第1号、1914–1921年、25頁。

1915 年
3月31日

ウィーンでピウスツキにオーストリアのパスポートが発給される。

1915年3月31日にウィーンの帝室・王室警察本部によって発給されたブロニスワフ・ピウスツキのパスポート、ユゼフ・ピウスツキ家財団のコレクションより。
4月

ウィーン派の『ポーランド百科事典』編集集団の正式代表としてローザンヌへ派遣される。激烈な論戦が交わされる中で、ピウスツキは統合を成し遂げた。『ポーランド百科事典』(フランス語)は1919〜1921年にスイスのフリブールとローザンヌで上梓された。

12月12日

「リトアニア戦争犠牲者支援運営委員会」がフリブールに設置され、ピウスツキがその評議会議長となる。

この年、ロシア帝室地理学協会の雑誌『生ける往時』にピウスツキの論文「樺太島アイヌの熊祭りにて」が掲載される(ポーランド語版は1909年に『スフィンクス』誌に発表)。

1916 年
年初

ローザンヌに設置された「ポーランド・リトアニア委員会」の議長に就任。ポーランド人とリトアニア人の和解を求めて奔走する。

スイス国内のラッパースヴィル、ローザンヌ、ヴヴェイ、チューリヒ、ジュネーブ、フリブールを旅して回る。フリブールには『ポーランド百科事典』の編集局があった。

1917 年
2月

ローザンヌとジュネーブで「シベリアのポーランド人」のテーマで一連の講演を行う。この講演は翌年、フランスのル・ピュイで印刷に付されて、販売益の全額が慈善事業に寄付された。

6月

チューリヒのポーランド協会から、戦場となったガリツィアからポーランド人の子供たちをスイスへ疎開させる慈善事業への支援を取り付ける。ピウスツキは在米の著名な音楽家ピアニストで政治家イグナツィ・パデレフスキへ電報を送って、米国での基金構築を要請する。

イクナツィ・パデレフスキ。

パデレフスキへの電報は、高名な慈善事業家プラテル・ツィベルク伯爵との連名になっていた。パデレフスキは、全米から寄せられた募金5万スイス・フランを、ポーランド協会に断りなく、ピウスツキ、ツィベルク連名の銀行口座に振り込んでしまう。この醜聞は「チューリヒ事件」と喧伝されて、ポーランド協会幹部連はピウスツキを強く非難し、あまつさえ彼の高潔さや愛国心を疑い、学術業績までも嘲笑の的にした。「チューリヒ事件」は彼の心をいたく傷つけた。

8月15日

ローザンヌに「ポーランド国民委員会」が創設される。委員会議長は、ユゼフ・ピウスツキの宿敵ロマン・ドモフスキである。「ポーランド国民委員会」は、パリに設立した委員会代表部における常勤ポストをブロニスワフに提案する。彼はその提案を受け入れた。

ロマン・ドモフスキ。
11月中旬

パリへ引っ越す。「ポーランド国民委員会」から託された仕事は広報関係で、とりわけ編集者として多忙だった。委員会外の重要人物との対応もしばしば任された。

1918 年

ポーランド人将兵捕虜の多くが抑留されているル・ピュイを訪問する。ここではポーランド語隔週刊誌『虜囚のポーランド人』が発行されており、同誌別冊としてピウスツキの『シベリアにおけるポーランド人』の印刷が進められていた。ル・ピュイからパリに戻ると、彼はこれらの読者を対象とする新聞の発刊を具申する。

4月27日

パデレフスキへ長い手紙を書き、「チューリヒ事件」に対する自らの関与を改めて説明する。

5月3日

「遺言書」、即ちポーランド人の敵対する諸会派の国民的合意を訴えた文書を書き上げ、多くの知友たちに自ら届けてまわる。これは「寛容同盟」創設を首唱するものだったが、不幸にもそれは支持を得られなかった。

時々見られていたピウスツキの鬱状態が、栄養不良と過労のためもあり悪化する。彼は体の調子が悪く、寝室の空気がむっとして重いと訴えた。自分の命を案じ、被害妄想に苦しんだ。そして誰かが自分に毒を盛るか、殺害しようとしていると信じ込んでいた。

5月16日

友人らの勧めにより、医師バビンスキ教授の診察に行く。進行した動脈硬化と診断される。

5月17日

早朝に起床して友人宅に立ち寄るが、不在だったため、「この世とおさらばすべく、注射してもらいにやって来た。私にかけられた嫌疑については、私は潔白だ」との書置きを残した。午前11時45分、セーヌ河に架かる芸術橋の守衛は、ピウスツキが上着を脱ぎ捨て、セーヌ河に身を投げるのを目撃した。

5月21日

午前8時15分、ミラボー橋のたもとで水死体となって発見される。遺体はヴワディスワフ・ザモイスキとヴワディスワフ・ミツキェヴィチによって確認された。

5月29日

ノートル・ダム寺院でブロニスワフ・ピウスツキの葬式が挙行されるはずだったが、突如中止となり(多分自殺のため)、遺骸はパリ郊外モンモランシーのシャンポー墓地に埋葬された。

1991 年

ユジノ・サハリンスクのサハリン州郷土誌博物館の前庭で行われたブロニスワフ・ピウスツキ像の除幕式。

ブロニスワフ・ピウスツキ像(沢田和彦撮影)。
2013 年

白老で行われたブロニスワフ・ピウスツキの胸像の除幕式。

白老のブロニスワフ・ピウスツキの胸像。
2018 年

ポーランドのジョルィ市博物館の前庭で行われたブロニスワフ・ピウスツキ像の除幕式。

ポーランドで最初のブロニスワフ・ピウスツキ像。
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