民族学

壕からのワシ狩り

POWRÓT
活動

1904年11月1日、ブロニスワフ・ピウスツキは小船で海沿いのコタンケシに向かい、知人のシチリキに会った。シチリキは、廃墟となった壕を利用した、独創的なワシ狩りの方法を教えてくれた。

その後の数日間、ピウスツキは秋のアザラシ狩りを見学したが、彼の関心は近隣のフレチシュ村、アカラ村、フヌプ村で有名なシャーマンを探すことだった。彼はシャーマンに会うことができず、モトマリに向かって、そこでイオマンテとは別に、狩った熊を捧げる儀式に立ち会った。

11月11日、ピウスツキは既にセラロコに滞在し、馴染みのオトサン村を経て、ようやくアイに到着した。そこでは彼の家族と親戚、即ち妻のチュフサンマと息子、彼女の叔父バフンケ、その他の友人たちが彼を待っていた。それから数日間、アイ・オトサン・コルサコフ・セラロコのルートを旅し、11月28日にオトサンで行われた「熊送りの儀式」(イオマンテ)を最後に見ることができた。

それから一カ月も経たない12月21日、ピウスツキはコルサコフからサンクト・ペテルブルグの科学アカデミーに、この島での調査滞在をさらに一年延長することを求める電報を打った。しかし1905年1月2日に旅順港が陥落し、彼の計画は挫折した。ロシアは全艦隊を失うという不利な状況に陥ってしまったのだ。周知のように、この戦争に乗じてブロニスワフの弟ユゼフは極秘任務で東京へ行った。ブロニワフがサハリン北部の村々でニヴフの友人たちに挨拶していたのとほぼ同じ時に、ユゼフは東京にいた。ブロニスワフがウスコヴォ村でメモを整理していた間、ユゼフはその南東2,000キロ離れた東京の霞ヶ関で日本の外務大臣に覚書を提出していたのである…。

だが話をサハリンに戻そう。このように状況がさらに厳しくなるにつれ、学術調査は先延ばしにせざるを得なくなった。アイヌ人たちは、ロシア人の報復と疑い深さを非常に恐れていた。武器は不足し、食料の価格は恐るべき水準に達していた。 ピウスツキはサハリンを離れる準備をしていた。彼はニコラエフスクを経由して、その後鉄道でロシアのヨーロッパ方面へ向かうルートを仮に考えていた。彼はシヤンツィ、ナイブチといった馴染みの村を訪ねながら、出発の準備をしていた。これらの村で学校を閉鎖せざるを得なかったのだ。1905年3月初旬、ピウスツキはアイ村に来た。アイ村では、来るべき変化に備えて家族の準備をした。彼は妻を連れて新しい居住地(おそらく既に本土にある)に戻るつもりだった。

ピウスツキは徐々に北上していった。オトサンのシャーマンは、なおもブロニスワフのために別離の儀式と占いの儀式を行ってくれた…。さらに北上すると、インフルエンザが蔓延していて、免疫のないアイヌ人は壊滅状態で、多くのロシア人が命を落としていた。ピウスツキも発病し、感染から回復したものの、非常に衰弱していた。 3月23日、まだ雪の残る平原をトナカイのソリに乗ってオノールへ急ぎ、そこに2週間滞在した。オノールで、リャプノフ武官知事から依頼された「アイヌの生活整備と統治に関する規程草稿」を完成させた。

その後、ピウスツキはルィコフスコエ村に一カ月間(4月13日から5月12日まで)滞在し、報告書や編集物を作成した。即ち、「樺太島の個別アイヌ村落に関する若干の情報」、前にリャプノフ軍務知事に提出した「アイヌの生活整備と統治に関する規程草稿」の修正版、1904/1905年冬に実施した識字教育に関する報告書である。

一方、4月30日、ピウスツキの刑は公式に満了し(入植者、非農民としての身分も含む)、両首都を除くロシア帝国内のどこにでも定住できる機会が与えられ、故郷に帰ることも許可された。ピウスツキは手続きと更なる準備のためにデルビンスコエ村(現ティモフスコエ)に行き、サハリンの植生に関する記述を書き終えた後、1887年に自分のサハリンの旅が始まったアレクサンドロフスク港へ向かった。

6月11日、「ウラジオストク号」でサハリンを出発し、アムール川河口にあるニコラエフスクに向かった。そこに10日間滞在した後、ハバロフスクに向かい、マリインスコエ村を訪れて、アムール川流域に住むアイヌについての情報を収集した。

数日後、ピウスツキはハバロフスクに到着した。7月14日、彼は中央・東アジア研究ロシア委員会の議長V. ラドロフの求めに応じて書いていた、サハリン先住民の現状に関する報告書を仕上げた。

8月初旬、ピウスツキは既にウラジオストクに滞在しており、科学アカデミー・アムール地方研究協会の準会員として、アムール地方研究協会の後援のもと、サハリンでの研究成果について講演を行った(8月5日と12日)。

9月5日、ポーツマスで日露講和条約が調印された。

この条約により、南サハリンは日本の統治下に置かれ、南サハリン、すなわち北緯50度線以南の領土の運命が決まったため、彼の家族は正式に日本領に入ることになった。かくしてピウスツキは1905年9月中旬に最後にアイ村を訪れ、家族のチュフサンマと助蔵に会ったものと思われる。バフンケ首長は結局ピウスツキの妻子の出発に同意せず、ブロニスワフは家族と別れることとなった。

その後まもなく、彼はヨーロッパに戻るべく出発した。彼は大量の民族学資料を携えており、それらを学界で発表したいと考えていた。

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