活動
日本・ポーランド協会 ー ブロニスワフ・ピウスツキと二葉亭四迷
活動
互いに知名度が低いポーランドと日本の両国の交流を進めるために情熱をかたむけ友人であった2人は、日本でポーランド文化を、そしてポーランドで日本文化を普及する場を創る決心をしました。二葉亭はこのとき既に豊富な文学経験を持ち日本文学にも影響を与えており、ピウスツキは特に日本がロシアとの戦争に勝利した後のポーランド社会における日本文化の魅力に気づいていたため、彼らにとって最善な方法は文学の普及でした。
この目的のために、また他の活動分野も念頭に置いて、1906年春に日本・ポーランド協会を設立しました。協会は二葉亭と仕事をしていた様々な文芸雑誌の出版者・西本波太の事務所が拠点となりました。西本は特に1905年にヘンリク・シェンキェヴィチがノーベル文学賞を受賞したため、ポーランドの作家の作品を出版することに興味を持っていました。友人となった2人は将来日ポ協会付属ポーランド図書館の設立も計画していました。そしてブロニスワフ・ピウスツキは、ヨーロッパへ戻った後に彼が知っているワツワフ・シェロシェフスキなどポーランド文学を代表する作家や関係者に彼らが選んだ作品の推薦をもらい、かつあればそれらの作品のロシア語・英語・ドイツ語・フランス語訳を手に入れて、それを二葉亭宛に送ることも決めました。その一方で彼は日本文学の作品を出版することを請け負い、実際二葉亭はいくつかの提案を送りました。
ガリツィアへ戻った後にピウスツキは生涯のパートナーであるマリア・ジャルノフスカも巻き込んで日本に日ポ協会付属図書館を設立する作業を精力的に始めました。 ブロニスワフ・ピウスツキと二葉亭の協力により、著名なフェミニストの福田英子と社会主義的な思想の作家・木下尚江が共同で運営する雑誌『世界婦人』に日本で初めてポーランド文学の日本語訳が掲載されました。この雑誌の次の号にはアンジェイ・ニェモエフスキの散文詩『愛』と、断片的ではありましたがポレスワフ・プルスの中編小説『椋のミハイロ』を載せることができました。どちらの作品も二葉亭によって(ロシア語から)翻訳されたものです
二葉亭はブロニスワフ・ピウスツキにロシア語訳の2つの日本文学の作品を、つまり非常に有名な作家である森鴎外の短編小説『舞姫』と木下尚江の『良人の自白』を送りました。しかしピウスツキは『舞姫』をポーランドの読者にとって十分に魅力的ではないものとして取り上げず、そのかわりに木下の作品を翻訳しました。それはヴワディスワフ・ブコヴィンスキ(ペンネーム:セリム)とその妻が創刊した雑誌『スフィンクス』に掲載されるはずでしたが、何らかの理由で出版されませんでした。そして二葉亭との文通は途絶えてしまいました。
ブロニスワフ・ピウスツキと二葉亭の共同イニシアチブは長くは続きませんでした。1908年に二葉亭は朝日新聞の特派員としてロシアに赴きサンクトペテルブルクでマリア・ジャルノフスカと会うことができました。しかし彼はすでに結核を患っており1909年4月に友人の勧めで日本へ帰国するため出発しました。そして5月にベンガル湾の船上で二葉亭は亡くなりました。当時ブロニスワフ・ピウスツキはこの日本の友人の健康状態が急速に悪化していることを知らずに彼に手紙を書いていました。しかしその手紙が受取人の二葉亭に届くことはありませんでした。
澤田和彦「ポーランド・日本協会」:ブロニスワフ・ピウスツキの批判的伝記、Vo.2、埼玉2010に基づいて