遺産

出版は文化である 

POWRÓT
遺産

井上紘一

一九七五年の春、野澤信義さんが御子息を連れて北大文学部の研究室に来られた。文学部附属北方文化研究施設助手に採用され東京から着任したばかりの私は、河野常吉・広道父子の著作集を上梓した地元出版社々長の来訪に些か当惑したものの、野澤さんは社是を北海道や北辺の歴史・文化に関する基本資料の公刊と明言され、「このほど社業に就いてくれることになった息子をよろしく」と頭を下げられた。爾来四六年が経過、北海道出版企画センターは創立五〇周年を迎えた。まことに遺憾ながら、そのときの御子息・経時さんは二〇〇二年に亡くなられたそうだ。 

 私は一九八三年に離札、再び札幌に戻るのは九四年であるが、同センターとの縁が出来したのは二〇〇〇年。当時はブロニスワフ・ピウスツキの『樺太アイヌの民具』を日本で出版する課題を、サハリン州郷土博物館のV・ラティシェフ館長から請け負っていた。それは同館が一九九一年、ピウスツキ生誕125周年を期して開催した第二回ピウスツキ国際会議の特別展図録であるが、ソ連崩壊後の混乱で公刊不能と断じ、協力を要請した私に露文の解題と標本記載、百二点の出展標本画像を託したわけである。私の採用した(1)著作は日露英三言語併記版とし、(2)日本学術振興会へ科研費刊行助成を申請するという基本戦略は順調に進捗したものの、声をかけた出版社からは軒並みに「御希望には添いかねる」との回答が届いて、私は途方に暮れてしまった。 

 私の窮状を見かねて、今は亡き畏友の河野本道さんが北海道出版企画センターの野澤緯三男さんに話を繋いでくださった。驚いたことに、緯三男さんは当座の大赤字を覚悟の上、即決で出版を引き受けたのである。赤字幅を縮めるには部数を絞るほかなく、まことに残念ながら単価は高止まりだった。『樺太アイヌの民具』は二〇〇二年二月に上梓されたが、野澤信義発行と明記されているから、緯三男さんの判断の背後には、ひょっとすると父上の関与があったのかも知れない。 

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サンクトペテルブルグの人類学民族学博物館はピウスツキが樺太と北海道で採集した千点ほどのアイヌ標本を収蔵するが、約七百点のエンチウ(樺太アイヌ)資料は世界で最大・最良のコレクションにほかならず、『樺太アイヌの民具』はその一割を収録する世界初の図録である。ピウスツキ・コレクションの特別展はその後も日本(二〇一三~四年)とロシア(二〇一九~二〇年)で開催され、その都度図録も公刊されたとはいえ、われらの三言語併記版図録はその意義を些かも減じてはいない。 

 私はピウスツキ生誕150周年の二〇一六年へ向けて、彼のサハリン民族誌の編纂を企画する。ピウスツキは自前の民族誌執筆を構想するも、第一次世界大戦がそれを頓挫させたから、彼の見果てぬ夢の実現を図ったわけである。英語版の『ピウスツキ著作集』(全五巻)は第四巻までが既刊のため、私は日本語の読者にターゲットを絞ることにした。当該民族誌の特色は、彼の生前・没後の既刊関連労作を原文から日本語へ翻訳し、解題を付したところにあろう。私は前轍を踏襲し、翻訳・編集作業を終えた段階で科研費を申請しようとしたが、今回も声をかけた出版社からは断られつづけた。  

 野澤信義さんは二〇〇六年に逝去されており、企画センターにこれ以上の負担を強いてはならぬと深く決意していた私は、徒手空拳で打開策を模索するも、遂に二進も三進も行かなくなる。この折の白馬の騎士も、私の窮状を緯三男さんに伝え、支援を訴えた河野本道さんだった。野澤緯三男社長は平静な表情で、『ピウスツキのサハリン民族誌』の上梓に同意すると私に告げた。こうして私は二〇一五年十二月、科研費刊行助成を恙なく申請することができたのだ。その際、学術振興会は出版社に対し、仮製本された本冊見本三部の提出を審査資料として命じたそうである。 

しかしながら、この度の科研費申請案件の審査結果は「不採択」であった。わが書斎の書棚には、緯三男さんから頂戴した藍表紙仮製本の本冊が、この一件の証人として鎮座している。 

『ピウスツキのサハリン民族誌』は二〇一八年一月、東北大学東北アジア研究センター叢書第63号として上梓された。ピウスツキ生誕150周年には間に合わなかったが、同年は逝去100周年に当たるため、同書は没後百年を迎える彼の霊に捧げられている。 

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一九七八年一月十三日付道新記事によると、野澤信義さんは冒頭で「出版は文化です」と規定した上で、「残して置かねばならない地域の文化的資料や研究成果を拾い出し、出版しておく――それを喜びとし、第一の目標にすることが大事」と語っていた。この精神は御子息らも十全に継承しておられるようだ。私の仕事がそのようなお眼鏡に適ったとすれば頗る光栄であるが、出版は算術でもある。『樺太アイヌの民具』の在庫を減らすべく、私事を饒舌に語ってしまった。乞御海容―― 

井上紘一 「出版は文化である」『蝸牛の歩みを続けて 1971~2022/北海道出版企画センター創業五十周年記念誌』14-17㌻、札幌:北海道出版企画センター 

(1) Vladislav M. Latyshev & Koichi Inoue (eds.), Sakhalin Ainu Folk Craft, Sapporo: Hokkaido Publication Planning Centre / В. M. Лatышeb и K. Инoyэ (peд.), Hаpoднoe ucкyccmвo cаxаzuнcкux аŭнoв, Caппopo: Xoккaйдcкий Цeнtp Издateльcкoгo Плaниpobaния / ӲcS^ c✓・M・cτJε٨✓、井上紘一 共編❒樺太/U^͹民具Д札幌:北海道出版企画セSター (2002)

(2) Кyzbmypа аŭнoв: взszяд uз Poccuu. Из кozzeкцuu Myзeя анmponozosuu u 7mнospафuu uмeнu Пempа Bezuкoso (Кyнcmкамepа) Poccuŭcкoŭ Aкадeмuu наyк, Caппopo: Opгaнизaция пo пpoдbижeнию и изyчeнию aйнcкoй кyльtypы /❒¤ε/が見¾/U^文化:¤ε/科学/カυミー・SョーL0大帝記念人類学民族学博物館͹コhクεョSよりД札幌:公益法人/U^文化振興・研究推進機構編集・発行 (2013)

(3) Mup аŭнoв szазамu Бpoнuczава Пuzcyдcкoso. Кozzeкцuu Кyнcmкамepы / Świat ajnów oczami Bronisława Piłsudskiego. Kolekcje Kunstkamery / The World of the Ainu through the Eyes of Bronisław Piłsudski. Kunstkamera Collections /, Caнкt-Пetep6ypг: Myзeй Анtpoпoлoгии и Эtнoгpaфии им. Пetpa Вeликoгo (Kyнctкaмepa) Poccийcкoй Акaдeмии Hayк (2019)

(4) Alfred F. Majewicz (ed.), The Collected Works of Bronisław Piłsudski –– Vol. 1: The Aborigines of Sakhalin, Berlin & New York: Mouton de Gruyter (1998); Vol. 2; Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore (Cracow 1912), Berlin & New York: Mouton de Gruyter (1998); Vol. 3: Op. cit. 2, Berlin & New York: Mouton de Gruyter (2004); Vol. 4: Materials for the Study of Tungusic Languages and Folklore, Berlin & Boston: Walter de Gruyter (2011); Vol. 5: Materials for the Study of the Nivhgu (Gilyak) Language and Folklore (forthcoming)

(5) Koichi Inoue (ed.), Bronisław Piłsudski’s Sakhalin Ethnography––The Enchu, Nivkh and Uilta around the beginning of the 20th Century /高倉浩樹監修、井上紘一訳編・解説❒Ӳ¤ω^ ワ✓・S9^ツキ͹サハ”S民族誌––二十世紀初め前後͹^SŚ9、ωӲ✓、9U0タД(東北/ζ/研究セSター叢書 第 63 号)仙台 (2018)

(6) “Leave cultural achievements of the region for later generations! Profit first is no good”, Hokkaido Shimbun, 13 January 1978 /r地域͹文化的研究を後世に––利益主義でͺMめ]❒北海道新聞Д (1978 年 1 月 13 日付)

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