社会的関係

日本の民族学者と他の専門家たち

POWRÓT
活動

ブロニスワフ・ピウスツキが東京で交流した今一つの非常に重要なグループは、日本の人類学者と民族学者だった。サハリンとアムール川河口の民族に関する研究におけるピウスツキの業績を考えると、これは極めて明白だった。ピウスツキが東京に到着して間もなく、ある新聞にピウスツキの来着を知らせる記事が掲載され、彼が人類学者であると説明されたので、なおさらのことだ。北東アジア地域は、日本列島の民族の起源を特定しようとする日本の専門家にとって、大きな関心事だった。この調査は、「国家」意識の高まりに伴い、アジアの歴史における日本の役割の概念を発展させるのに役立った。

2月、「ロシアの人類学者」と題されたピウスツキの記事が、大部数の『東京朝日新聞』に掲載され、これまたピウスツキを日本の研究者の注目の的とさせた。

東京滞在中、彼はこのような人々の何人かと面会することができた。言及に値するその一人は、〈日本人類学の父〉と見なされている坪井正五郎である。

ピウスツキが横山源之助に会ったのは、ピウスツキが東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)で坪井正五郎の講義を聞いて帰ってきた時だった。横山は、労働組合運動と下層社会の社会学に取り組んでいた報道記者である。坪井は当時、日本人類学会の会長を務めていた。ピウスツキは坪井の研究と、アイヌの伝説といくつかの点で収斂する、日本に住む最古の民族に関する坪井の理論を知っていた。ピウスツキは後にサハリンの先住民に関する文章(1909年)の中で坪井の研究に言及している。

坪井正五郎

偶然にも1903年の大阪の内国勧業博覧会の、いわゆる「人類館」の展示を監修したのは坪井だった。これは、台湾、朝鮮、沖縄の民族とアイヌ人の代表を含む「未開の」人々を展示した「人間動物園」として悪名をはせた。博覧会に参加したアイヌの一人に野村シパンラムがいたが、彼は無一文で北海道の故郷の村に戻ろうとして、函館で立ち往生してしまった。ピウスツキはその時、シパンラムに食事と旅費を提供することで大いに彼を助けた。これによって、シパンラムの村である白老のアイヌ人たちとの生涯にわたる友情が生まれ、白老は1903年にピウスツキとヴァツワフ・シェロシェフスキが行った調査の拠点となった。

写真はおそらく野村シパンラムである。

鳥居龍蔵

鳥居龍蔵は、ピウスツキが最も親しくなった日本の人類学者であり、坪井の弟子でもあった。当時、彼は東京帝国大学理科大学で教鞭を執っていた。1906年2月8日の『東京朝日新聞』に、「露国人類学者」ピウスツキが日本の首都に到着したことを知らせる記事が掲載されたのは、彼のおかげである。

老後の鳥居龍蔵

鳥居は千島列島のアイヌ人(サハリンや北海道の​​アイヌ人とは言語が大きく異なる)に関する調査で有名になり、その成果は1919年の論文「千島アイヌ」にまとめられた。しかしながら、1903年に鳥居が日本語でこのテーマに関する本を出版したため、ピウスツキはおそらく最初の版でその文章を知悉していただろう。興味深いことに、鳥居は人類学と考古学の調査を組み合わせ、それに基づいて、いわゆる縄文文化と同一視されている、日本に住む最古の民族グループはアイヌ人だと結論づけた。さらに鳥居は人類学に写真を導入した先駆者とされており、鳥居が撮影した膨大な数の写真集が残されている。写真、考古学的遺物の研究、民族学的観察の組み合わせは、ピウスツキと鳥居を結びつけたに違いない。鳥居はピウスツキを東京周辺の探索旅行に連れて行き、その間に両者はさまざまな物を収集したことが知られている。

例えば、東京近郊の西ヶ原古墳周辺で貝塚、つまり古代のゴミ捨て場が出土しており、彼らはそこで興味深い遺物を発掘した。サハリンでピウスツキが新石器時代の2個の石斧を発見し、それについて記述していることが知られている。

ピウスツキは鳥居の妻・きみ子とも親しくなった。きみ子はモンゴル語の​​優れた専門家で、夫のモンゴルでの調査を手伝った。彼女が調査旅行中の夫に会うために東京を出発した時、ピウスツキは電車まで彼女に付き添った。

神保小虎

ブロニスワフ・ピウスツキのもう一人の日本の知人は、神保小虎である。この人物は、大学教授、地質学者、鉱物学者、そして北海道とサハリン(樺太)地域の専門家であり、非常に興味深いことにアイヌ語の専門家で、アイヌ語で議論することができた。神保はピウスツキと文通し、彼に自分の写真を送った。

村尾元長

ピウスツキが東京で出会ったもう一人の人物は、北海道の研究者で、漁業の発展に関与した技術者だった。彼はアイヌ人の歴史を研究し、1892年にこのテーマに関する論文を発表した。函館に居住中、彼は北海道周辺の漁業を発展させるための条件を長年にわたって研究した。村尾はしばらくの間ウラジオストクに滞在した。彼は北海道で高官として働いていたが、短い生涯の最後に東京に戻った。その時、おそらくピウスツキと会ったのだろう。ピウスツキには確かにこの日本人研究者と議論すべき多くの話題があった。

Zobacz również
中国人社会主義者たち

ブロニスワフ・ピウス ...

日本の社会主義者たち

ピウスツキが東京で彼 ...

箱館屋

ブロニスワフ・ピウス ...