社会的関係

二葉亭四迷とブロニスワフ・ピウスツキ

POWRÓT
活動

ピウスツキのすべての日本人の知人の中で最も大きな役割を果たしたのは、「二葉亭四迷」(1864-1909)という筆名で知られる人物だった。「長谷川辰之助」というのが本名だが、彼は二葉亭四迷という筆名を使った。「二葉亭四迷」は音声上は「くたばってしまえ!」という表現に似ており、これは強い表現で、上品に言うと「消え失せろ、惨めにくたばれ!」というような感じなのだが…。ピウスツキ自身は、彼のことを「ハセガワ」または「ハシェガワ」と呼ぶことが多かった(後者の表記は、ロシア語の転写 «Хасегава» の影響を受けているようだ)。

彼は非常に興味深い人物だった。ピウスツキより2歳年下で、有名な東京外国語学校(現・東京外国語大学)の露語科を卒業しで学び、ジャーナリスト兼作家として働いていた。東京で出会った時には、既に『浮雲』という、(それまで慣行だった古典的な文語ではなく)口語で書かれた実験的な小説で有名になっていた。その内容は、19世紀末に生きて、その時代の病である「根無し草」や「選択の不確かさ」の感覚の何らかの影響を受けた、2人の友人の異なった性格を描くものだった。特にツルゲーネフ、ゴーゴリ、ガルシン、アンドレーエフ、ゴーリキーなどの作品をロシア語から翻訳し、これによってロシア文学の研究に強い刺激を与え、その人気に影響を与えたことで、二葉亭の名前はよく知られていた。

1909年の二葉亭四迷。

二葉亭四迷はエスペラント語の愛好家だった(『世界語』という学習書すら書いている)。

ピウスツキと出会う以前、彼は中国とロシアを訪れ、ハルビンの日本人商店や北京の京師警務学堂で働いた。二葉亭はポーランド問題に強い関心を抱いており、ピウスツキが東京に滞在している間、喜んで彼に会って、その支援者になった。二人は毎日のように会い、やがて二葉亭はピウスツキをさまざまな行事に招き、箱館屋の下宿に連れて行き、重要人物に紹介した。そのうちの一人が、ジャーナリストで弁護士の横山源之助である。

横山源之助。

二葉亭は、回想録「露国文学談片」や「文壇を警鐘する」の中でピウスツキについてこう書いている。

「西比利亜で苦役に服し、今は四十才位であらうか、未だ家をなさない。而もアイヌ救済を一生の大責任と心得て、東京まで出て来た。所が世間が餘りに冷淡なので大に憤慨して居たやうだ。▲さらば御當人はと言へば、嚢中屢ば空しと言ふ有様で、衣服などは粗末で、食物などは何をも選ばぬ、生命さえ継げば、夫れで充分だ、ドウしてもアイヌの如き憐むべき人種を保護しなければならぬと考えて居る。▲局外から見れば、実に馬鹿げて居るやうだが、其のあどけない真面目の態度が、吾々の同情を惹く所である。」

二葉亭はピウスツキを、大隈重信(ピウスツキは前に2月の慈善音楽会で会っていた)、板垣退助、島田三郎、巌本善治らに引き合わせた。

板垣退助

板垣は、明治維新以降の日本の政治において卓越した人物だった。彼は、日本最初の憲法制定に大きく貢献し、自由民権運動を起こした。そしてこの運動は発展して、初のリベラルな政党「自由党」を生んだ。

1906年当時の板垣退助(70歳の髭が特徴的な男性)。

島田三郎

島田三郎もまた日本の重要な政治家であり、財政家、文部省の高官、そして後に国会議員、大隈重信の党の党員となった。一時期は横浜で、後に東京でも日刊紙を経営していた。島田は大隈重信とともに早稲田大学を創設した。島田は労働組合運動を支援し、足尾銅山鉱毒事件では被害者の擁護に努めた。

島田三郎の写真、国会図書館のコレクションより。

巌本善治

巌本善治は女子教育運動に大きな功績を残した人物である。雑誌『女学雑誌』を創刊し、女性の社会的地位の向上に努め、さまざまな論文を執筆したほか、自ら設立した学校で教鞭を執った。

巌本善治

しかし、その後二葉亭は、ロシア人活動家たちが無能で、内輪の議論に終始し、まったく現実的でないことに失望して、ロシア人活動家から離れていった。二葉亭はそんな彼らに失望し、それを露骨に示した。ピウスツキはこのことを承知しており、亡命者が追求する大義に対する彼の態度の変化を理解していた。にもかかわらず、両者の友好的な関係は続いた。

ピウスツキが二葉亭に最終的な出国の決意を伝えると、二人は記念写真を撮ることにした。1906年6月19日、二人は大学街の本郷の写真館に出向き、中黒写真館で写真撮影をした。

二葉亭四迷とピウスツキの写真、クラクフの国立文書館所蔵、[Bronisław Piłsudski], ref. no. 29/645/0-/435。

しかし、二葉亭四迷とピウスツキという二人の友人が、ポーランドと日本の関係のために成した最も重要な仕事は、史上初の「日本・ポーランド協会」の設立であった。

7月、ピウスツキは長崎に移り、稲佐地区の稲佐山のふもとにある、ロシア領事館の秘書をしていた志賀親朋の家に数週間滞在した。そこは現在は公園になっている。

7月30日、ピウスツキは「ダコタ号」で長崎港からアメリカに向けて出航した。船上ではいくつかの文章を書き上げ、会合の準備をした。

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