大きな政治

リトアニアへの憧れから

POWRÓT
活動

「高貴な思想の鍛冶屋」—ブロニスワフ・ピウスツキは友人たちからこう評された。スイスのポーランド人亡命社会が果たしたさまざまな役割は、政治を敬遠していたこの民族学者に他の分野で活動する機会を与えてくれた。さまざまな形の慈善事業に関わるだけでなく、彼は自ら新しいアイデアを生み出すこともあった。もし自分にそれを実行する力がなければ、いろいろな人にその実行を依頼した。

ピウスツキは戦争のために飢餓とさまざまな病気に苦しむガリツィアの子どもたちを助けようとする機運に加わった。彼は戦争によって貧困にあえぐポーランド人学術研究者のために資金を調達するため、「学術に携わるポーランド人支援委員会」を設立した。またヘンルィク・シェンキェヴィチが設立した「ポーランド戦争犠牲者救済委員会」(通称「ヴヴェイ委員会」)の活動に多くの時間を割き、その活動は教皇ベネディクト15世の支援を受けていた。当時2,000万スイス・フラン近くが集まった。さらにピウスツキは「リトアニア援助のためのより緊密な委員会」を設立し、リトアニアのポーランド人のために資金を集めたが、これはさほど成功しなかった。

スイスで結成された委員会は、戦後にリトアニア・ポーランド問題を解決するための選択肢を策定するものであった。この委員会には、リトアニアから来たポーランド人とリトアニア人の双方が含まれていた。ブロニスワフは、ポーランドの将来と独立の問題を決める時、ポーランドの将来の領土と、リトアニアとの連合というレンズを通して見ることが重要であることをはっきりと見抜いていた。ポーランドから見れば、彼がリトアニア・ポーランド問題を正確かつ論理的に理解していたことに注目すべきだろう。しかし、リトアニアの民族主義者たちはこの問題を見ようとはしなかった。将来、両国の間に多くの不一致がもたらされることとなった。

ブロニスワフ・ピウスツキのポーランド・リトアニア問題に対する考え方は、ポーランド・リトアニア連合王国の時代にまでさかのぼる。この点に関して彼が行った作業の痕跡は、終戦後のポーランドとリトアニアの連合を想定していたことの証左であるが、その形態を彼は明示的に打ち出していない。それは間違いなく、歴史的、文化的伝統に基づいた友好的な連合であるべきだった。リトアニアで生まれ育ったこの理想主義者は、リトアニアに憧れ、終戦後に故郷へ戻ることを期待していた。

リトアニアを代表する画家の一人アドマス・ヴァルナスが描いた、アイヌ衣装を着たブロニスワフ・ピウスツキの肖像画の写真、ユゼフ・ピウスツキ家財団のコレクションより(ズィグムント・フィト撮影)。この絵は1912年にステファン・ジェロムスキの家で制作された。

彼はあらゆる隔たりを越えた意思疎通を夢見て、若き日の祖国のイメージを大切にしていた。彼はそれを1916年にフランス語で発表したエッセイ「リトアニアの十字架」で感情を込めて表現したが、このエッセイはポーランド語では彼の死後6年経ってから活字化された。このパンフレットでピウスツキは、1840年にルドヴィク・アダム・ユツェヴィチ神父が書いた『サモギティアの特徴』を引用し、リトアニア、特にサモギティアの十字架の数についての知識を紹介した。彼は、「スムトケリス」、つまり「悲しみのキリスト」と呼ばれたキリストのポーランド起源を指摘した。また彼は別の資料、ミハウ・ブレンステインの著作を引用して、サモギティアの十字架を5つの別個のタイプに分類している。そしてその高貴で洗練された装飾と、新しく建立された十字架の叙聖式に注目した。一月蜂起の後、ムラヴィヨーフの勅令により、新しい聖堂の建立と老朽化した聖堂の修理が禁止された。ピウスツキは破壊工作の事例を紹介した。そして、「長年にわたってポーランドが姉妹国リトアニアとともに背負ってきたこの神の十字架を最終的に撤去した」後、再び「大きくて美しい、飾り立てた十字架」を建てることが可能になるだろうという願いを込めた。

ポーランド語によるこの著作の全文は、こちらでご覧いただけます。

ブロニスワフ・ピウスツキ「リトアニアの十字架」ポーランド語版の表紙。

なお、リトアニアの十字架彫刻芸術は、2001年に「人類の口承及び無形遺産の傑作」として認定された19の事象の中に含まれており、その7年後には「人類の無形文化遺産の代表リスト」に記載された。

ユゼフ・コメンダはユリウシュ・ズボロフスキに宛てた手紙の中で、ピウスツキについてこう書いている。

「彼は自分のリトアニアを何よりも愛し、ポーランドの犠牲の精神によって連合を復活させようとした。そこで彼は、シェンキェヴィチの「戦争犠牲者支援のための委員会」に加えて、リトアニア支援のためのより緊密な委員会を設立した。この活動は、ピウスツキが尊敬をかちえていたフライブルグのリトアニア愛好家の支持も得た。彼はこの分野での和解を目指した。この委員会は、故ブロニスワフ・P氏を委員長として、しばらくの間存続し、資金を集めていた。しかし、その後、委員長が他の仕事をするために脱退したため、委員会はリトアニア愛好家に引き継がれ、やがて衰退した。」

典拠

イェジ・ホツィウォフスキ『ブロニスワフ・ピウスツキの運命との決闘』ワルシャワ、2018年(ポーランド語)

アントニ・クチンスキ「ブロニスワフ・ピウスツキ(1866–1918) 流刑囚にして極東民族の文化の研究者」『独立と記憶』22/2 (50)、7–93頁、2015年(ポーランド語)

ブロニスワフ・パシェルブ「ブロニスワフ・ピウスツキ(1866–1918)—大きな政治との出会い—」『政治と社会』2011年8月(ポーランド語)

沢田和彦『ブロニスワフ・ピウスツキ伝 〈アイヌ王〉と呼ばれたポーランド人』成文社、2019年(日本語)

沢田和彦『ブロニスワフ・ピウスツキ伝 〈アイヌ王〉と呼ばれたポーランド人』スレユヴェク、2021 年(ポーランド語)

画家レオン・カウフマンが想像によって描いた、スイスのヴヴェイで行われた「ポーランド戦争犠牲者救済総委員会」のメンバーの会合の集合肖像画。実際にはこれと全く同じグループの人々の会合は行われなかった(パブリック・ドメイン)。
Zobacz również
『ヴォーリャ(自由)』

来日後のピウスツキが ...

中国人社会主義者たち

ブロニスワフ・ピウス ...