Zdjęcie Bronisława Piłsudskiego

博物館学

ウラジオストク

POWRÓT
活動

ピウスツキはアイヌ人との最初の接触からまもなく、アムール地方研究協会の働きかけでウラジオストクに移動することになった。サンクト・ペテルブルクからの推薦で、地理学協会支部で現存コレクションの資料管理人を務めることになったのだ。ピウスツキの到着後、地元警察署長に次のような密命が下された。「ピウスツキの到着後は、必ず適切な監視を行うように。もし罰せられるような行為で逮捕されることがあれば、サハリンに送還するように。」これに対しサハリン軍務知事には、ピウスツキが3月15日(1899年)頃にウラジオストクに到着して、博物館で働き、コレイスカヤ通りのツィンメルマンの家に住み、彼に対する監視が行われていることが通知された。

1899年4月、ピウスツキは二つのコレクションをアムール地方研究協会の博物館に寄贈した。即ち、ウスリー地方南部の植物標本と、サハリンのギリヤーク(現在の呼称はニヴフ)人の文化に関する民族学コレクション(200点以上)である。とりわけ前者は大変貴重なものだった。彼は前年11月、サハリンを離れる前に協会のためにこれを収集したのである。それはオデーサ経由でパリへ船便で送り、万国博覧会に出展することになっていた。展示品の選定はブロニスワフが行うことになった。その夏、フランス地理学協会の会員で旅行家のポール・ラッベがサハリンに向かう途中、ウラジオストクを訪れた。パリ万国博覧会で「シベリアとロシアのアジア地域」というパビリオンを担当し、アムール地方研究協会のコレクションを送ることになっていた相手が、この人物だった。おそらくウラジオストク滞在中に、この博覧会向けの資料に関する事案が話し合われたのであろう。

1900年4月から11月まで開催されたパリ万国博覧会では、これらの展示品のほとんどが売却された。なかにはアメリカに渡ったものもある。この極東コレクションは国際審査員から高く評価され、ロシア地理学協会は銀メダルを受賞した。

1900年頃、ウラジオストクでS. M. ブダギアンツが撮影したブロニスワフ・ピウスツキの肖像写真、ユゼフ・ピウスツキ家所有

1899年から1900年にかけて、ピウスツキはアムール地方研究協会副会長のニコライ・パリチェフスキーとともに沿海州へ何度も調査旅行に出かけて、博物館の展示品をさらに入手し、写真撮影を行なった。コダック社のおかげで1888年からカメラを簡単に購入できるようになり、その結果、学術的な研究報告には写真が不可欠となった。

ウラジオストクでブロニスワフは民族学コレクションの作成、フィールド資料の整理、学術図書館の運営に従事した。特にアメリカの機関との学術出版物の交換を開始し、『東洋通報』に記事を掲載してジャーナリズム活動にも従事した。また彼の招きでニヴフの少年がこの町にやって来て、サハリンに帰ってから教育活動に従事するべく、当地の学校に通った。しかし少年はまもなく結核にかかり、死んでしまった。ピウスツキはこの少年を連れてきたことで、自分自身を責めた。

1901年5月、彼はプリアムール総督に申請書を提出し、体調不良のためアムール地方研究協会の博物館を辞し、ブラゴヴェシチェンスクに登録、定住したい旨を記した。より乾燥した気候のブラゴベシチェンスクで、彼は民間の銀行か汽船会社に勤めたいと考えていた。博物館を辞めた理由は、仕事に満足できなかったことと、アムール地方研究協会副会長のパリチェフスキーとの確執であった。ピウスツキは7月10日付で1900年度の協会の活動報告書を作成し、その中で、博物館の展示品は整理されておらず、劣化しており、スペースがないため保管状態が悪く、保管庫を建設する必要があるが、何一つなされていないと書いている。また彼は、自分の給料を半減させてでも文書係を雇用すべきだ、という自分の提案が却下されたことも報告している。彼はこの状況に対してパリチェフスキーを非難した。これに対してパリチェフスキーは、自分に対する批判的な記事を誘発し、自分の仕事の誤りと過失を責めたとしてピウスツキを非難し、職を辞した。

10月、ピウスツキはブラゴヴェシチェンスクに定住する許可を得たが、新たな事態が発生した。彼はシュテルンベルグに宛てた手紙に、サハリンに戻ってギリヤーク人の調査を完了させ、オロッコの研究を始めたいと書いた。シュテルンベルグはサンクト・ペテルブルクの人類学・民族学博物館に勤務し、まもなく中央・東アジア研究ロシア委員会の歴史、考古学、言語学、民族学分野の書記に就任した。彼の指揮の下、調査旅行を組織して博物館のコレクションを拡大するプログラムが実施された。これらの調査旅行は1902年に始まり、その最初の一つがピウスツキのサハリン旅行であった。1902年7月8日、彼はウラジオストクを出発した。その3年余り後にピウスツキはロシアを不法出国して、日本に渡った。彼は8カ月間日本に滞在した後、アメリカへ渡った。

典拠

アントニ・クチンスキ「ブロニスワフ・ピウスツキ(1866–1918) 流刑囚にして極東民族の文化の研究者」『独立と記憶』、22/2 (50)、7–93頁、2015年(ポーランド語)

沢田和彦『ブロニスワフ・ピウスツキ伝 〈アイヌ王〉と呼ばれたポーランド人』成文社、2019年(日本語)

沢田和彦『ブロニスワフ・ピウスツキ伝 〈アイヌ王〉と呼ばれたポーランド人』スレユヴェク、2021 年(ポーランド語)

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