大きな政治

ブロニスワフ・ピウスツキと政治の世界

POWRÓT
活動

彼は政治の世界に関係した人物とは思われていませんが、政治はブロニスワフ・ピウスツキの運命に繰り返し影響を与えていました。政治は最初から彼の家族の運命に影響を与えていたのです。もし1月蜂起で敗北しなければ彼の身近で刑事制裁を直接受ける人は少なかったでしょうし、おそらくロシア分割下のポーランド領土の地主階級全体がこれほど急速に貧困に陥ることはなかったでしょう。19世紀ヨーロッパで非常に人気があった若者の自己教育の組合や組織に政治的かつ社会的性格はあったかもしれませんが、それらの主な目標がロシア化への抵抗となる必要はなかったでしょう。家庭での愛国心を育む教育はそれほど重要ではなく、ロマンチックな文学を学ぶことは違法にはならなかったでしょう。リトアニアの若者が大学教育を受けたいと思ってビリニュス大学が閉鎖されていなければサンクトペテルブルクに行く必要はなかったでしょう。中学校での「スプイニャ」と呼ばれた自己教育クラブの活動を秘密にする必要はなかったでしょう。

しかし1886年秋にサンクトペテルブルクで法律の勉強を始めたばかりのブロニスワフは知らないうちに冬の皇帝暗殺計画の準備に巻き込まれ大逆罪で告発されて被告として裁判にかけられたのです。化学物質やお金を手に入れるための援助を求めることが危険な結果につながるとは気づかず、彼は最も深刻な告発された者の一人になりました。そしてその後死刑判決は長期の懲役刑に減刑されましたが、これらは全てリトアニアの愛国心に溢れたポーランドの若者が打倒ロシア皇帝を掲げた革命運動に巻き込まれた結果でした。

民族学、民族史学、自然科学、極東の人々の研究、そしてポーランドのタトラ山脈とポトハレ地方におけるブロニスワフ・ピウスツキの科学的業績に主な重点は置かれていましたが、彼がつながっていたグループの幅広い政治的環境が機能していたことで彼が活動できたことを忘れてはなりません。ブロニスワフ・ピウスツキがロシアや日本やアメリカを去ってポーランド領に到着するまでのすべての接触は社会主義者の環境下のものであり、旅行ではロシア社会主義の協力者と兄弟であるユゼフ・ピウスツキが手伝っていました。

しかし彼の人生の最後の段階では政治の世界と世界観の摩擦、そしてポーランド人同士の論争が彼の精神に最も重く強く影響を及ぼしました。ブロニスワフ・ピウスツキは第一次世界大戦最後の1918年の最大の出来事に、いわゆるポーランド問題を巡る大きな外交に、プロパガンダに関わったのです。対立の場所はスイスでその次はフランスの首都パリでした。

第一次世界大戦が勃発したときブロニスワフ・ピウスツキはクラクフに滞在し、1914年11月にウィーンに向かい、翌年3月に待望のオーストリアのパスポートを手にスイスに向かいました。彼はフライブルクでサハリンへの過酷な流刑によって中断された大学での勉強を終えるつもりだったようです。しかし移民生活の渦は彼をいつまでも続く「奈落の底のようなポーランド」に引きずり込みました。「ウィーン」「ローザンヌ」「パリ」という対立するポーランド人団体はあまりにも多くの問題を引き起こし彼の貴重な時間を奪いました。しかしブロニスワフは「ヨーロッパの政治家や外交官用」に外国語で出版されているポーランド百科事典の共同作業でこれらのグループを統合できると考えました。ブロニスワフは「高貴な思想の元」と友人たちには呼ばれていましたが素朴さゆえに孤独なままでした。また彼には自分のアイデアを実行する力が十分なかったので、彼のアイデアを取り入れるためにさまざまな人々に協力を求めていたのです。彼は「戦争犠牲者への援助のためのシェンキェヴィチ委員会」の活動に参加しましたが、リトアニア支援のために「より厳格な」委員会を設立しました。彼はまたフライブルクにいるリトアニアの愛好家も巻き込み彼らの間では尊敬されていました。彼はこの分野での和解を求めていました。フライブルクで最善を尽くしたのは、戦争の結果として貧困に陥った学問を仕事とするポーランド人へ援助委員会を通して資金を集めることでした。これらはブロニスワフ・ピウスツキがスイス滞在中に始めたすべてのアイデアではなかったのですが、彼はとにかく他人のことを考えると何かしなくてはと落ち着かなかったのです。

スイス滞在中のブロニスワフ・ピウスツキはその活動で肉体的に疲労し、さらに彼の精神的な強さと抵抗力も衰えていました。政治問題や会議や審議や議論やマスコミの論争など、この人物にふさわしい雰囲気ではありませんでした。

1917年11月にブロニスワフ・ピウスツキはパリでポーランド国家委員会のスタッフの仕事に就きました。彼はクレベール通り11bisにあるポーランド国家委員会の公式本部に泊まりました。彼は控えめながらも重要な任務を与えられ、それに対して十分な資格がありました。それはさまざまな作品を集めた図書館をつくることでしたが、特に「主に外国の図書館にある地図、人口統計、歴史、ポーランドに関する民族学の作品」を集めることでした。これにより彼はパリの図書館や美術館だけでなく他も調べるチャンスを得たのです。当時は「国との交流と政治研究・出版局」と呼ばれていたところで働きヤン・ロズワドフスキ氏がその局長でした。彼は経験豊かな政治家で大家族の父親であったし、ブロニスワフ・ピウスツキにとって上司というだけでなく多くの仕事上のそして個人的な問題を打ち明ける友人になりました。

ヤン・エマヌエル・ロズバドフスキ

資料の収集だけが彼のすべての時間を満たしていたわけではありません。また彼には企画するような仕事の機会もたくさんありました。そのアイデアの一つはポーランドとフランスの出版社を設立することであり、その目的は「ポーランドでの人間関係やポーランドの歴史や民族や文化を同盟国に知らせる」ことでした。残念ながらそれは1918年5月の初めに、つまり健康状態が悪化しかつ急展開した政治的出来事に失望した時に生まれたものでした。

それ以前には1918年4月12日のロズヴァドフスキへの手紙からわかるように、ブロニスワフの健康状態に問題が起こるきっかけとなった最初の不穏な兆候が現れました。オッソリネウム図書館にあるヤン・ロズワドフスキの自筆手紙の中にはブロニスワフ・ピウスツキが委員会の責任者として彼に宛てた最後の手紙とメモとスケッチが保管されています。その手紙からわかるように、ブロニスワフは活動を割り当てて委員会の会議の議事録を作成しそれを最終的な形にしたり、また同僚に仕事を与え彼らのタイムパフォーマンスと稼いだお金の価値を評価したことになっています。また委員会の役員として常に実務に参加したわけではないのに新たな任務に指名したことになっています。なぜならそれはポーランド国家委員会の幹部が自らの行動を認めさせるために時々ピウスツキの名前を使っていたからで、ブロニスワフはそのことに十分責任を感じていました。また1918年3月になるとポーランド民政局の一般委員会だけではなくパスポートや法定後見人や捕虜や抑留者などの候補の中にピウスツキの名前が現れました。しかし実際にはブロニスワフ・ピウスツキはこの委員会には参加していなかったのです。

1918年5月3日にブロニスワフ・ピウスツキはこの憲法記念日を機に対立しているポーランドの政党に和解を呼びかける宣言を発し理解連盟の創設を提案しました。遺言のような彼の最後の行いでした。彼は個人的にそのチラシを友人に配布しましたがそれはあまり受け入れられませんでした。

残されているロズバドフスキの記録によると、1918年5月15日にピウスツキが完全に病気であり、躁病で迫害を受けているという被害妄想にかかっており、できるだけ早く医者に診てもらうべきであるという情報を受けたことがわかります。ブロニスワフは誰かが彼を毒殺するか殺すのではないかと恐れていました。翌日の5月16日にブロニスワフは神経科医ユゼフ・バビニスキの診察を受け、帰った時は酷くくたびれていたそうです。その時、ロズバドフスキは彼を最後に見ました。ピウスツキの病状についてバビニスキは「彼は動脈性高血圧症で血圧が高く、自殺願望のある憂鬱症を患っており、それを克服するのが難しい」と書いています。

ブロニスワフ・ピウスツキの悲劇的な死についての現在の説明には問題がないと思われます。5月17日に彼は友人のディオニジー・ザレフスキが住んでいたサン・ミッシェル大通りに行きましたが友人は家にいませんでした。そして彼はメモを残し、そこには「私は注射を求め世界を終わらせるためにここに来ました。私の周りに積み重なっている疑惑に直面していますが無実です。」と書かれていました。セーヌ川に架かるポン・デ・アルテ橋の警備員の報告によるとブロニスワフ・ピウスツキは正午頃に橋の上で上着を脱いで川に放り、その後身を投げたのです。

ポーランド国家委員会の死亡記事によると葬儀はフランスで最も重要な教会であるノートルダム大聖堂で行われる予定でしたが突然キャンセルされ、ブロニスワフ・ピウスツキの遺体はパリ近郊のモンモランシーにあるポーランド人墓地に運ばれました。ヨゼフ・タルコ・フリニエヴィチは次の言葉で彼を回想しました。

「亡くなったブロニスワフをよく知る人なら誰でも、彼の気質は革命家ではなく、社会の激変への野心家ではなかったと言うでしょう。それどころか、彼は政治を避け、嫌う男で、穏やかで、柔らかく、優しく、ほとんど女性的な性格で、鳩のような心を持つ男でした。いつも元気で、頭が空想と新しい計画でいっぱいでした。彼は特に物を整理して作成するのが好きでしたが、始めたことの先頭に立つことそして規則に縛られて働くのが好きではなかったのです。彼はそのようなことは我慢できませんでした。彼は画一的なものにうんざりしていただけでなく、一箇所にとどまることにもうんざりしていました。」

参考文献

Bronislaw Passierbブロニスワフ・ピウスツキ(1866‐1918)政治の世界に出会う、『政治と社会』2011年8月、257-268ページ」

Helena Florkowska-Franćić 「ブロニスワフ・ピウスツキの晩年1915‐1918(スイス・パリ):ブロニスワフ・ピウスツキ(1866–1918)。人であり学者であり愛国者である、2003年ザコパネ、185-210ページ」

澤田和彦 「ブロニスワフ・ピウスツキの物語。アイヌの王、スレヨウェクと名付けられたポーランド人」、スレヨウェク 2021年

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