活動
ブロニスワフ・ピウスツキが残した業績と小民族のアイデンティティ問題について
活動
絶滅の危機に瀕した文化を記録する先駆者としてブロニスワフ・ピウスツキは小民族の文化遺産を守るだけでなく、現代の小民族のアイデンティティへの取り組み方にも影響を与える実績を残しました。ブロニスワフ・ピウスツキの研究活動は特にアイヌの独特な文化とアイデンティティの保存に貢献しています。
現在はグローバリゼーション問題、国民のアイデンティティ問題、小民族(小さな故郷)問題、文化遺産の文化的変容と民族政策の問題などの、つまり多国籍国家で発生している問題である、多くの少数民族や民族グループの言語と文化の保存活動を行う組織があります。しかしこれらが新しい問題ではないことは既に19世紀の文書や立法活動があったことによって証明されています。法的な規制があっても多くの先住民族は存在しなくなり、また他の先住民族らは民族的アイデンティティと言語または文化を失いました。そしてこの状況は続いており「ルーツに戻る」または「民族の覚醒」のための行動がとられていますが、それらは望ましい結果をもたらしていません。大シベリアの小さな先住民族のグループに関する多くの例がありますが、彼らの民族への帰属意識は今や遠いものであり消えつつあります。例として1000人以下の特定の民族コミュニティではその90%が彼らの言語を話すことができません(ユカギール人やイテルメニ人など)。
しかし良い例もあります。ソビエト連邦の崩壊後にウラル山脈より東のこれらの広大な地域に住む先住民族で少数民族の言語と文化を保護する取り組みが復活しました。それによりブリヤート人・カカ族・ヤクート人・コリアック人・ネネツ人・ニヴフ人の間では、自分たちの地域とのつながりを強調して自分たちの故郷と仲間の間にいるという意識が育まれ、言語・文化・宗教・習慣など彼らのコミュニティにとって総合的な価値を持つ同一の精神と一貫した活動のシステムが生まれています。サハリンの民族的・言語的・文化的コミュニティはブロニスワフ・ピウスツキの研究対象でした。彼の流刑は民族学・言語学・宗教学・民俗学・自然人類学・民族発生学など先住民文化の研究に関連する多くの分野での重要な見解の源となりました。アイヌ・ニヴフ・オロックの文化のさまざまな側面に捧げられた出版物にはブロニスワフ・ピウスツキが彼らに対する関心を、彼らのもてなしや文化に対する、そしてロシア人によるサハリンの植民地化から生じた不幸に対する深い関心を明確に示す部分があります。また民族の文化の秘密を研究し長期にわたる接触の過程で生まれた彼らとの共感の姿もそれらのテキストの中に見えています。それは信仰や儀式・歌・おとぎ話・伝説について学ぶことに必要なことでした。また研究者ブロニスワフ・ピウスツキに対してどれだけニヴフ族が共感していたかは先住民の女性が作曲し彼に捧げた歌にはっきりと見ることができます。これらの歌でブロニスワフ・ピウスツキは兄弟とか友人とか保護してくれる人と呼ばれていました。ブロニスワフ・ピウスツキは次のように書いています。
「私が予想すらしなかった運命でサハリンに送られたときに最初に出会ったのはギリヤークでした。彼らはまた私たちに共通する辛い不運の友であり、永遠に私の親愛なる友人であり続けたのです。そして彼らにとって、ギリヤーク全体から見れば、誉高い日々は、ギリヤーク族から見た偉大な時代は過ぎ去り、2度と戻って来ないでしょうそして彼らは、至る所に聳え立つ山々を、速くて、澄みきった、絶え間なく流れる小川せせらぎを、川の源流を、毛並み豊かな動物でいっぱいの鬱蒼とした神秘的な森の今までの主たちは広大な自然を支配していることを誇りに思っていましたが、新参者によって踏みにじられ、彼らが愛した自由は永遠に失われてしまいました。」
サハリンを去った後もブロニスワフ・ピウスツキはこれらの問題について考えることをやめませんでした。なぜなら1909年に彼はパリ人類学協会での論文を次の言葉で締めくくったからです。「皆様、もう少し時間をください。私が自然と共に生きている者の間で生活していた時にしばしば悩んだ考えをご紹介したいと思います。私たちは彼らの過去のあらゆる詳細について興味深く研究しますが、その時には彼らの未来をほとんど気にしていないのです。しかし彼らは死に絶え、消滅しつつあるのです[…]。彼らは今現在も侵略者との破壊的な出会いのせいで彼ら自身のアイデンティティを急速に失っています。私は彼らの間で生活していたし、彼らの悲しい瞳に終わりが近いことも実感していたし。彼らは本能的に彼らに少しでも好意を持ってくれる人に助けを求めているのです。同じ苦しみを持つ国の者として、私は彼らの深く落ち込んだ悲しみを感じました。ですから私は、自然と共に生きている人たちの運命に関心を持つ科学者の注意を引くことを、私の道徳的義務として決めました。私は人類学協会が人類学の研究を最初に始め、多くの偉大で高貴な思想を生み出したフランスの人類学協会がすべての善意を導いて、これらの見捨てられる存在の世話をするためにすべての努力を結集するイニシアチブをとると確信しています。それは私たち人間の感情から生まれる義務であり、実行されるべき救済行為です。」
ブロニスワフ・ピウスツキは自身の責務として、植民地主義と帝国主義に脅かされた人々の国民的アイデンティティの保存とその資料作りに貢献しました。それはロシア化政策によって自国のアイデンティティが脅かされたポーランド人としての経験が、他民族の文化的問題に対する彼の感受性に影響を与えたのかもしれません。『アイヌ語および民俗学資料』の序文では、異質な文明の圧力にさらされている先住民の状況を、外国の占領下にある国で青年期を過ごした囚人である自身の状況になぞらえています。「私は極東で18年以上過ごしましたが、自分の自由意志によるものではありません。常に故郷に戻ることを夢見ていた私は、自分が流刑者であり、自分にとって貴重なものすべてから切り離され、奴隷の区分で下にいる苦しい意識をできるだけ忘れるよう努力していました。
だからこそ私は大昔からその住民の地であるサハリンに心からの愛着を感じる、そしてここに流刑地を設立した人々から疎まれているこのサハリンの先住民に対してごく自然に親しみを感じています。
全く異なる文明の侵入によって追い詰められた自然と共に生きている子供たちと接触することが、私には権利がないが、私がある種の力を使って感謝の念を呼び起こしていることに気がつきました。(私は国家の歴史や文化を根絶するために学校で迫害され侵略者の言葉を話すことを強制されたあの陰鬱な時代のヴィルノで過ごした学生時代から、私は個人や国家の権利を侵害する人々の中に含まれないような生き方と行動を心がけてきました。
[…]生活する辛さにますます悩むこれらの部族民により良い未来への喜びと希望をもたらすことができて私は喜びを感じました。遊ぶ子供たちの純真な笑い声、善良な女性の目に溢れる感涙、病人の男の顔に浮かぶ感謝の笑顔、感謝の叫び声、気持ち良さを表わす肩を叩くしぐさ、これらは私の運命の重荷を軽くしてくれる香油でした。」ブロニスワフ・ピウスツキの友好的な性格や人道主義、そして彼の助けに、サハリンの先住民は彼に絶対の信頼を寄せていました。そしてこれをサハリンの軍事総督は利用して、ブロニスワフにサハリンの先住民部族の行政原則の草案を作成すること、そしてこれらの部族の人口統計学的および経済的状況を調査するよう依頼しました。
1899年にサンクト・ペテルブルクの中央当局によって実施された、広大なシベリアの領土における経済的・社会的・民族的問題を規制するさまざまな規則や法律の見直しの後に、内務省はそれらを「時代遅れで変更が必要」と判断しました。よって1900年には州知事に「先住民に関する法律草案」の作成を義務付ける条例が発表されました。しかし中央当局がこれらの資料の転送を要求したときにサハリンの関連事務所がこの草案を作成していないことが判明したのです日本もサハリンに明確な関心を寄せていた時であったために、島の行政規則を改善し先住民に関する法律を改正することがロシア当局の利点になっていました。このようなことからアイヌとオロクに関する民族誌的資料の収集というピウスツキの使命には彼らを管理する原則の草案と国勢調査が追加されました。そして彼のこれらの仕事はこれらの文化の保護のためのさらなる研究と活動の基礎にもなりました。