大きな政治
スピシュとオラヴァでのブロニスワフ・ピウスツキの活動
活動
ブロニスワフ・ピウスツキは、タトラ博物館協会の民族学部会長として、地域研究の組織化と推進に携わった。彼が関心を抱く地域はポトハレだけでなく、スピシュとオラヴァにも及んだ。スピシュとオラヴァは歴史を通じて繰り返しポーランドに併合、もしくはポーランドから分離され、当時はハンガリーの一部となっていた。山岳民の調査を行っている間、民族学者はそこに住む人々の民族意識を高揚させることに関与するようになった。
大都市ではハンガリー化が急速に進んだが、農村部ではハンガリー政府の影響と同化の恩恵から事実上遮断されていた。言語と習慣は、地元の住民をベスキッドかポトハレの山岳民と結び付けた。それ故これらの山岳民は、民族学上のポーランド人と見なされていた。 1880 年にポーランド国籍を示す項目が削除され、スロヴァキア国籍の項目に換えられた。これは、現在のマウォポルスカの地域からの、民族意識の高揚への予期される影響を防ぐための試みだった。逆説的にこれは、それまでいわゆる「南部の国境地帯」の問題を提起していなかったガリツィアの世論を活性化させることとなった。
オーストリア・ハンガリー政府の非国有化政策に対応して、20 世紀の変わり目にスピシュとオラヴァでポーランドの民族教育キャンペーンが開始された。その目的は、上部ハンガリーのポーランド少数民族の存在をブダペストに認めさせ、帝国内の他の民族が享受する権利を彼らにも付与することだった。キャンペーンはまた、ポーランドの学校と神学校の設立を求めた。これは、スロヴァキアの司祭によって行われる宣伝工作を阻止することになったであろう。民族意識を覚醒させようとする目的は、スラブ主義者によって取り上げられた。彼らは雑誌『スラブ世界』と、ブロニスワフ・ピウスツキと協力したノヴィ・タルクの活動家たちによって統合された。彼らが自らに課した課題は、教育を受けた人々に個人的な影響力を通じてポーランド人であるという考えを悟らせること、スピシュとオラヴァの若者をポーランドの学校に集めること、ポトハレ、スピシュ、オラヴァの住民の間の社会的なつながりを確立すること、ポーランドの新聞や雑誌を発送することであった。国境地帯の住民との以前からの接触は、参拝の場所への巡礼中の交易と会合に限定されていた(カルヴァリア・ゼブジドフスカとリュジミェシュの教会はとりわけ人気があった)。
ザコパネ滞在中、ピウスツキはノヴィ・タルクで政治・社会活動を展開していた医師ヤン・ベドナルスキ(これにより彼は市の名誉市民の称号を得た)に会った。ヨルダヌフ近くのブィストレで生まれたこの人物は、人生のとても早い段階で国境地帯の住民と接触する機会があった。この地方の中心都市に到着した後、彼は親ポーランド感情を共有する、徐々に出現しつつあるオラヴァのインテリ層と接触し始めた。スピシュとオラヴァにポーランド語の本や新聞を違法に配達することによって、ベドナルスキは地元の人々に書き言葉を学ぶよう勧めた。彼はまた、19世紀初頭から続いていたモルスキエ・オコ湖をめぐる論争でも重要な役割を果たした。ベドナルスキ自身、きわめて質素な生活条件を提供されたクラクフの聖アンナ教会の中学校に通っていたので、居住地外で学校に通う若者が直面する問題をよく理解していた。したがって、ガリツィアとロドメリアの国会議員として、彼はノヴィ・タルクに中学校を設立しようとした。この目的は最終的に達成された。1904 年 9 月、南ガリツィアの若者は中等教育の恩恵に浴する可能性を得た。就任演説でベドナルスキは、民族意識を形成するためのセンターとしての機関の役割を強調した。
中学校の開設後、ノヴィ・タルク以外から来る学生の宿泊施設の問題が発生した。1904年12月初旬、寮建設のための資金を調達し、貧しい学生を支援するために、聖スタニスラス・コストカ中学校寮協会が組織された。協会は、スピシュとオラヴァ出身の学生の生活費の全額を負担した。ベドナルスキは、生活費、個人指導、衣服、教科書の代金を支払うことで、この地域の若者をとりわけ手厚く保護した。
この活動家は、第一回ポトハレ議会の主導者の一人だった。1912年の夏に開催された次の議会で、ベドナルスキはスピシュとオラヴァの問題を普及させる機会を見出した。ポトハレの地域主義者たちは、上部ハンガリーでの普及キャンペーンに参加することに同意し、これらのトピックに関する情報を南の国境を越えた隣人たちにも提供するために、定期刊行物の創刊を求める声が上がった。8月3日、特別に設立されたスピシュ・オラヴァ部門のメンバーが会合し、すでに一部スロヴァキア化された山岳民の間でポーランド人のアイデンティティを推進しようとする者によって設定された、活動の目的と方向性について話し合った。この会議の結果、日刊紙『ポトハレ新聞』が創刊された。これは、地域の問題に携わるインテリだけでなく、地元の方言で書かれた読者の手紙を掲載したので、地元の人々にとっても魅力的なものとなった。この新聞の記事は地元の問題に限定されなかった。分割されたポーランドと外国で起こっている現在の出来事も報道したからだ。
主に教育の分野でのスピシュとオラヴァへの支援は、民族学校協会の地域単位によっても行われた。最も活発な地域単位は、1894年にザコパネで設立されたものだった。同じ論題に関心のあるさまざまなグループの活動をよりよく調整するために、ザコパネの地域主義者たちは、スピシュ・オラヴァ委員会の設立を提案した。この論題は1914年4月に開かれた協会の地区連合グループの総会で討議された。総会のゲストには、ヤン・ベドナルスキとブロニスワフ・ピウスツキもいた。
研究者としてのピウスツキの関心は、ポーランドのポッタトジェ地域に限定されてはいなかった。何度も登山をしている間に、彼はスピシュとオラヴァの人々と接触した。タトラ博物館のコレクションを補完する一方で、ピウスツキはまた上部ハンガリーのさまざまな地域から物品を入手した。『ポトハレ年報』(タトラ博物館のみならず、ザコパネとその周辺地域のために活動している他の機関の定期刊行物として考案された)もまた、スピシュとオラヴァの問題に捧げられることが、彼の意図だった。この問題は、『リヴィウ日刊』紙の編集長ボレスワフ・ヴィスウォウフにとって興味深いものだった。
ピウスツキはヨーロッパを旅する間、『リヴィウ日刊』の外国特派員として働いていた。ある手紙で彼はヴィスウォウフに、パリの博物館にあるポーランドの展示品について書くつもりであると伝えた。外国では、パリのみならずウィーンやプラハで数多くの民族学博物館を訪れた。当時、彼は学術的な記録を書き、認めてもらうために編集長に送った。ピウスツキの関心には、極東、主に日本の事柄が依然として含まれていた。日本で彼は現地の知識人から暖かく歓迎されたのである。しかしながら、『リヴィウ日刊』の読者はそれが気に入らなかったようだ。
タトラ博物館協会の民族学部会のメンバーとして二人の男性は、リヴィウで民族学展覧会を組織するために協力し合った。彼らは、パリのポーランド人ディアスポラのメンバーの間でこのアイデアの支持を得ようとしたが、うまくいかなかった。非常に多くの人々(ステファン・ジェロムスキやヴワディスワフ・ミツキェヴィチを含む)が支持を表明し、委員会が結成されたにもかかわらず、展覧会は最終的に実現できなかった。
1911年、リヴィウで「タトラのポーランド人友の会」が設立された。タトラ山岳民の問題への関心を示唆するような、誤解を招く名前にもかかわらず、それは上部ハンガリーの領土内に住む人々の間で包括的な活動を実施することを目的としていた。この会の綱領には数多くの教育キャンペーンが含まれていた。これには、スピシュとオラヴァにポーランド語の図書館と民俗家屋を作ること、「国境地帯」の若者を教育のためにガリツィアへ送ることが含まれており、それは民族意識を有するポーランド人インテリの新しい世代の形成につながるはずだった。ブロニスワフ・ピウスツキは、ヴィスウォウフに宛てたある手紙で、自分の居住地以外の学校に通う場合に起こりうる悪影響を指摘している。彼はこう書いている。「ノヴィ・タルクの中学校にスピシュから来た生徒が数人います。しかし、私の考えでは、これは危険な行為だと思います。なぜなら、彼らは後に、惨めな近隣から文化的により豊かな中心地へ逃れようとするからです。」これを防ぐために、教育支援の条件として、受給者は自分の故郷に戻るべきこととなった。
この会の綱領のもう一つの要求は、ハンガリーにポーランドの司教区を設立するための措置を講じることだった。スピシュとオラヴァのカトリック人口は、スロヴァキア語を話す司祭がこの地域で祈祷を執り行っていたため、スロヴァキア化されていた。会はまた、その活動を支援しうるさまざまな組織との協力を確立しようとした。
ブロニスワフ・ピウスツキは会の評議委員会に手紙を書き、民族学部会が喜んで協力する旨を言明した。手紙の中で彼はスピシュとオラヴァの「無視された地域」への関心と懸念を強調し、二つの会の合同学術調査を組織したいという希望を表明した。手紙の添付文書には、会のメンバーになることを申請した 14 人の氏名と、徴収された28クローネの登録料に関するメモが記載されていた。ボレスワフ・ヴィスウォウフへの別の手紙には、彼はこう記している。「二つの機関が存在する場合、互いに些細な争いがない限り、問題にはならないかもしれません。競争は良いことですが、敵意を伴う競争は悪いことです。」彼はまた次のように書いている。「私は今のところ送金はしません。金をここに残して会の支部を組織する方がよいでしょうし、ここで直接活動する方が多分いいでしょうから。ザコパネには、医師の診察を希望するスピシュの住民と、乳製品を販売する業者の双方が、かなりの数訪れます。」
全体として、クラクフの国立文書館に保存されている資料からは、綱領で提唱された会の活動が大衆から大きな反響を得たことは窺われない。その活動は、民族学校協会と共にポーランド語の出版物を配布し、図書館を設立することに限られていた。
典拠
K. ジェンバ「スピシュとオラヴァの人々のためのブロニスワフ・ピウスツキの活動 ボレスワフ・ヴィスウォウフへの手紙の余白に」『クラクフ公文書年報』2021年、第27巻、107–133頁(ポーランド語)