兄弟姉妹

ユゼフ

POWRÓT
家族

ユゼフ・クレメンスはブロニスワフの一歳年下で、1867年12月5日に生まれた。10年後、ヴィリニュス第一中学校の兄と同じクラスに入学し、学校の最終試験に合格した後、ハリコフ大学で医学の勉強を始めた。二人の兄弟の道のりはまだ中学校在学中に分かれたが、1887年の皇帝暗殺未遂事件に関与した嫌疑により二人とも逮捕された。ユゼフは既に陰謀の活動に加わっており、暗殺者たちの意図を十分に把握せぬまま彼らを助けた。ブロニスワフは陰謀により多く関わっていた。ユゼフは最終的に事件の参考人となり、ロシアの奥地へ5年間の流刑を宣告された。帰還後、彼は社会主義運動に加わり、なかんずく非合法雑誌『労働者』の編集発行人となった。ロンドンで開催された第二インターナショナルの第4回会議に参加。1899年にポーランド社会党の活動家マリア・ユシュキェヴィチ(旧姓コプレフスカ)と結婚した。夫妻はウッジのアパートで秘密の印刷店を営み、そのために二人とも逮捕された。ワルシャワの要塞に監禁されたユゼフは、精神異常を装い、まもなくサンクト・ペテルブルグの病院に移されたが、ポーランド人医師ヴワディスワフ・マズルキェヴィチの助けを得て病院からガリツィアへと逃れた。かの地で彼は、組織の作戦を急進化させることによって独立を目指す活動を続けた。資金を集め、盟友を獲得するために日本への旅に出た。ユゼフはポーランド社会党の戦闘組織を率いて、ベズダニ付近でロシアの列車を襲撃した。彼は積極闘争同盟を設立し、軍事作戦の訓練を行うライフル部隊を指揮した。自分が期待した第一次世界大戦が勃発した後、彼はポーランド立憲王国でロシアに対する蜂起を扇動しようとしたが失敗に終わった。オーストリア・ハンガリー軍とともにポーランド軍団を創設したのち、ユゼフはその第一旅団を指揮した。1917年7月、彼はドイツとオーストリア・ハンガリーの両皇帝への忠誠を誓うことを拒否し、マグデブルグへの強制収容を受け入れて、戦争の終結を待った。ドイツ人に釈放されて、彼は1918年11月11日にワルシャワに到着した。そのカリスマ性とリーダーとして力のある戦略プランゆえに、ドイツ兵によるほぼ無血の武装解除を確実にし、ボリシェヴィキ革命のポーランドへの伝播を防ぎ、民族主義者の感情を包摂し、戦勝国の協商によって認められたイグナツィ・パデレフスキ政府を樹立して、1919年1月に最初の選挙を行い、ポーランド国会(立法下院)を設立することとなった。ユゼフはソビエト・ロシアに勝利した戦争においてポーランド軍を指揮したことも含め、国家再建を指導し、国境を防衛することによって生まれ変わった国家を率いた。初代大統領ガブリエル・ナルトヴィチが暗殺された後、ユゼフ・ピウスツキは短期間世間から身を引き、クーデターに続いてようやく1926年に職務に戻った。彼は国の大統領に選ばれることを断り、二度首相官邸の主となり、軍務大臣と全軍監察官を亡くなるまでつとめた。この初代ポーランド元帥は、1935年のその死までの国家の政策の基調を定めた。私人としては、最初の妻が亡くなった後に再婚したアレクサンドラ・シュチェルビンスカとの間に、二人の娘ワンダとヤドヴィガをもうけた。彼はワルシャワで亡くなった。3日間続いた葬儀の最後に、遺骸はヴァヴェル城に納められた。ユゼフの死後一周忌の日に、彼の心臓はヴィリニュスのロッサ墓地の母の遺骸の足元に埋葬された。

1870年頃のブロニスワフとユゼフの写真、スレユヴェクのユゼフ・ピウスツキ博物館のコレクションより(ミロスワフ・ステルマフ撮影)

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