アイヌ人妻

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アイヌ家族

POWRÓT
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「老人の若い娘は馬車に近付いて、絹製衣服や暗青色の南京玉を収めた小ぶりの包みを下ろし、息子の方は、数本の刀が収納されている草製の袋を運び出していた」―ブロニスワフ・ピウスツキは、将来のアイヌ人妻との最初の出会いをこう表現している。ピウスツキの著作にチュフサンマが登場する唯一の例である。

1904年、助蔵を抱くチュフサンマ、ワルシャワ近・現代文書館のコレクションより

少女は当時23歳。1902 年 9 月後半、ピウスツキがオトサン村で開催された熊祭り(イオマンテ)に初めて参加した時に、二人は出会った。12 月、ピウスツキはアイ村に移り、そこで冬を過ごした。彼はサハリン・アイヌの間でよく知られたバフンケ(木村愛吉)が所有するロシア風丸太小屋に移った。兄シレクアの娘はこの家を頻繁に訪れ、首長の家は民族学者の恒久的な拠点となった。おそらくチュフサンマは完璧な語学教師だったのだろう。アイヌの専門家である知里真志保は、二人の物語を次のように描写している。

「今から遡ること凡そ四十年、波蘭の人類学者ブロニスラフ・ピルスヅキー氏(Bronislaw Pilsudski)は流謫の身となつて樺太へ来た。白浜の近くにあつたアイヌコタンのアイ(現在の相浜)で侘しく民俗調査の仕事に日を送つてゐた。コタンの長に一人の愛姪があつた。その名をチュフサンマと云ひ、美人の多い樺太アイヌの中でも、その美貌を謳はれてゐた。若きピルスヅキーは西洋人特有の如才なさと、堂々たる風貌をもつて、コタンの畏敬を一身に集めてゐた。美しいチュフサンマのピルスヅキーに対する敬愛は、愛情に変つて行つた。いつしかこのメロコポ〔娘〕と碧眼の美丈夫とは、ハマナスの赤い花咲く浜辺や、緑濃い椴林で恋を語り合ふやうになつた。今なほ、コタンの語り草となつてゐる『胸まで長鬚を垂れた立派な人で、良い人だつたピルスヅキーさん、村一番の美しいメロコポだつたチュフサンマ』の恋は淋しいコタンの話題だつた。アイヌ女性は自分の意思で嫁に行くのが常ではあったが、この恋はチュフサンマの両親挙げての劇しい反対にあつた。だが二人は反対を押し切つて結婚した。溯北のコタンで愛の巣を営み、二児をもうけるに至つた。」

1903 年 9 月末、バフンケの首唱によりブロニスワフ・ピウスツキとチュフサンマの伝統に則ったアイヌの結婚式が挙行され、1904 年 2 月 12 日、最初の子供である息子の木村助蔵が生まれた。翌年12月18日に娘の木村キヨ(結婚後、「大谷」と改姓)が生まれた時、ピウスツキはもはやアイ村にいなかった。 9月中旬、彼は家族と永遠の別れを告げた。その時、彼はポーランドへ帰る旅に同伴するつもりで、日本の占領下にある妻子を訪ねたが、チュフサンマの家族は妊娠中の女性とその幼子が旅立つことを許さなかった。以前、家族を連れずにサハリンを離れた時、ピウスツキは妻に自分のことを他人に言わないよう頼んだようだ。彼は彼女のことを誰にも得意げに語ることはしなかった。

その25年後、サハリンの『樺太日日新聞』の記者・能仲文夫は、チュフサンマにインタビューすることに成功した。彼女は別れの場面をこう説明している。
「やがて毛皮に身を包んだプ〔ピウスツキ〕氏は、十頭曳きの犬橇の人となつた。妻のシンキ〔チュフサンマのこと〕はまだいたいけない乳呑児の我が子を背負ひ、さつきから、張り裂けるやうな悲しみを制へて雪の中に埋くまつてゐる。橇は動き始めた。虫が知らせたか、プ氏はこれが最後の別れになるのではないかと思ふと、後髪を引かれるやうな気持だつた。今まで眼に涙をたゝへ、黙つて下うつむいてゐたシンキは、突然半狂乱になつて、走り行く橇の後を泣き叫びつゝ追つたのである。けれど、走り出した大橇は止まらうともしなかつた。プ氏は手をあげて、幾度々々も後振り返り、別れを惜んだ。走り疲れたシンキはバツタリと雪の中に打ち倒れた。そして、大声を挙げて泣きわめいた。見送るバフンケの眼にも何時しか熱い涙が宿つてゐた…。」

会うことのなかった娘が誕生する2週間前の 12 月 4日、ブロニスワフ・ピウスツキはロシアを永遠に離れ、ウラジオストクから日本に向けて出航した。

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