教育学
サハリン先住民の教育のパイオニアとしてのブロニスワフ・ピウスツキ
活動
ピウスツキの教育活動は、流刑の最初の時期にルィコフスコエ村滞在中に始まった。刑務所の事務局での仕事に加えて、彼はそこで気象観測に従事し、(L. J. シュテルンベルグへの手紙で彼が述べているように)ある種の誇りを持って教育活動に従事していた。
「ルィコフスコエ村の私の場所で、困難ではありましたが、民間朗読会が開かれていました。特に毎回約100名もしくはそれ以上の人間が集まるという事実からしても、それが受け入れられ、満足と益をもたらしていることがはっきりと分かります。〔中略〕N. ゴーゴリの短編小説(『タラス・ブーリバ』—この単一の物語は挿絵付き)、I. ニキーチンの『富農』、V. コロレンコの『森はざわめく』を読みました〔氏名のイニシャルはA. K.とW. Ł.によって補足〕。現在、アレクサンドロフスクから古地図を受け取り、ロシアの歴史に関する体系的な講義とともに、その使用方法を教えています。講義の後半はいつもフィクションの本に充てています。」
B. ピウスツキがサハリンの教育機関の発展に大きく関わっていたことを決定的に証明する、多数の文書が保存されている。例えば、管区長G. V. サヴリモヴィチへの手紙で、彼は「ティミ管区における民衆教育とその組織の発展」のための明確な計画を策定した。前述の L. J. シュテルンベルグ宛の別の手紙で、彼は次のように書いている。「私は規律を確立することができないので、自分には教育活動はできないと思っています。もし私が誰かになんらかの影響を与えうるとすれば、それはただ衷心からの会話を通してのみですが、その場合でも互いの共感と教師の十分な威信が必要です。」B. ピウスツキの教育活動を詳しく見てみると、サハリンの住民コミュニティにおける彼の大いなる威信の基盤として、彼がこの「互いの共感」と「互いの愛情」を利用したことが明確に強調されるべきだ。1887年から1899年までの最初のサハリン滞在期間ですら、彼は教育活動の発展のための計画を立てて、それを制度化したいと考えていた。これは、先住民族がロシア人や日本人に遅れを取らないように教育する必要性を理解していたからである。彼は島民の社会的地位を高める機会として、とりわけ教育に着目した。彼はこのことについて、1898年にハバロフスクで発表した「樺太ギリヤークの困窮と欲求」という題名の、覚え書とも呼ぶべき論文にこう書いている。
「文明化された人種の文化を採り入れる原始民族の能力は、—と彼は強調する、—多くの例によって確認されている。そのような人々に、文明の成果を彼らと分かち合おうという意図でアプローチした所はどこででも、成功裡に終わった結果が得られている。人は暴力に訴えるべきではなく、説得力、人道主義的な態度、優しさ、寛大さをもって彼らに影響を与えるべきだ。」
このように定式化された見解は、先住民との日々のやり取りの中で実践的な表現を見出した。従って、ブロニスワフ・ピウスツキは彼らの集落でとても有名になった。これについては多くのことが書かれることになった。最近までニヴフの村に住んでいた高齢者の中には、家族の記録からこの非凡な人間の人道的活動を知っていた人たちがいたからだ。教育の分野におけるブロニスワフ・ピウスツキの意図は、やがて先住民自身の中から採用した教師を教育することへと広がった。例えば、1899年にウラジオストクへ向かった時、B. ピウスツキはニヴフの少年インディンを連れて行き、少年が島に戻った時に仲間の部族民を教えられるように教育するつもりだった。
この崇高な意図は失敗に帰した。少年は間もなく死亡し、ブロニスワフ・ピウスツキは深い悲しみに沈んだからだ。一方、ピウスツキは、千徳太郎治という名前の若いアイヌ人と協力して働くことに成功した。この人物のおかげで、アイヌ人のための学校を設立しようとする努力が、特に教育面でより具体的な成果をもたらした。また千徳は北海道調査旅行の間、ピウスツキとヴァツワフ・シェロシェフスキを支援した。ブロニスワフ・ピウスツキに関する資料中に、サハリンの民族の間で行った彼の教育活動を直接描出している箇所を見出すことができる。それは、多数の論文、写真、手紙、個人的なメモ、報告、および公式報告書である。例えば、つい最近トムスクの国立中央極東文書館で、「1903–1904年のコルサコフ地区のアイヌ学校の簡略予備報告」と「1904–1905年のコルサコフ地区のアイヌ初等学校の簡略な報告」と題する2つの草稿が発見された。これらの文書は1993年にA. クチンスキとV. ラティシェフによって初めてポーランド語で発表された。
発表された文書は、この計画に関する多くの詳細な点を明らかにし、ピウスツキがその主唱者として、先住民を教育する必要性を深く確信していたことを示している。日露戦争の勃発により、アイヌの子供たちのための初等学校を設立するという、上首尾に進んでいた作業が中断した時、ピウスツキは、この地での生活が平和でゆっくりとしたペースに戻った時、教育に対するアイヌ人たちの願望と可能な限り迅速な学校の組織が、より完全な形を取るだろうと確信していた…。もちろん、必要なのは、この目的とアイヌの人々のためのかなりの額の金だった。金は国から提供されるべきであり、これらの人々は、立派な大義に常に共感を示すロシア国民から期待されるべきだと。
サハリンの先住民の子供たちに普遍的な教育を提供しようとするブロニスワフ・ピウスツキの計画は、彼自身がその実施を監督して回った時には成功していた。しかしながら、彼の伝記から私たちが知っているように、1905年に彼は永遠にサハリンを去った。まもなく島の南部は日本の支配下に置かれた。日本政府は教育に独自の規則を課した。多くのアイヌが北海道に再定住し、そこで彼らの文化変容のプロセスが始まった。ロシアの支配下にあったサハリン北部に住む先住民グループは、自分達の擁護者を失ってしまった。ピウスツキによって開始された作業は、何年もの間再開されなかった。しかしながら、20 世紀初頭のB. ピウスツキの考えや、彼が行った提言の多くは、その今日性を失ってはいない。
典拠
アントニ・クチンスキ、ヴラディスラフ・ラティシェフ「ブロニスワフ・ピウスツキの教育活動について(資料紹介)」『ポーランド民族学』第37巻、1993 年、第2冊(ポーランド語)