博物館学
ザコパネ
活動
ピウスツキが山岳民の文化の研究を始めたザコパネとのつながりは、1908年にさかのぼる。彼はサンクト・ペテルブルクの民族学博物館のために、ポトハレ地方の文化を特徴づけるコレクションを収集した。
二度目のザコパネ滞在は1911年9月に始まった。ピウスツキは、タトラ博物館協会の副会長である、ポトハレの大地主ヴワディスワフ・ザモイスキ伯爵を訪ねた。翌年4月まで彼はクジニツェの、ザモイスキの母ヤドヴィガと妹マリアが経営する家政女学校のゲスト・ルームに住んでいた。ザモイスキ伯爵との会話で、ブロニスワフは地元を調査するチームを結成することを提案した。タトラ博物館の初代館長で、長くその職にあったユリウシュ・ズボロフスキは、後年こう述懐している。
「貧乏で、時には赤貧洗うが如き状態になりながら、ピウスツキは久しい以前にポトハレに移ってきた多くの外来者を集め、富裕な者やさほど富裕でない者から上手に金を集めている。」
その頃ピウスツキに会ったアダム・ウジェンブウォは、ピウスツキから受けた印象を後に次のように語っている。
「そしてついに新しい人間、民族学の知識を備え、すでにその名を轟かせている人間が現れた。それは〈アイヌ王〉、ブロニスワフ・ピウスツキだ。ほぼ正真正銘の〈王〉。本物の学者だ。〔中略〕きちんとした身なりをし、短く刈った顎髭を生やしたこの幾分白髪まじりの紳士には、何か強く人を惹きつけるものがあった。どこに現れても自宅にいるように自然に振舞っていた。初めて出会った人間が、たちまち彼にとって親しい者となった。彼にはセンチメンタルな慇懃さのかけらもなかった。いや、ブロニスワフ氏は自分自身について多くは語らず、自分のことを打ち明けたり、押しつけたりはしなかったが、どういうわけか数分間の会話の後には、自分の相手がいかなる人物なのかが既に分かるようになるのだった。この新しい知人は何ができるのか、何に興味があるのか。そしてしばらくすると、何か説明を求めたり、あるいはどうすればこれやあれやの手筈を整えられるのか、どうすればある人物の仕事を助けることができるのか、といった助言を求めるのである。ある場所に行くにはどうしたらいいか。やがて話題は、バックル、錬鉄製のベルト、スプーンを吊るす棚、ガラス絵、道端の聖人の彫刻、鉢、ドアフレームに及んだ。そしてどういう訳か、こうした会話から、歴史的遺物の問題は非常に緊急性が高く、最も慎重に収集する必要があるという結論に自然に達するのだった。」
ピウスツキの発案で、タトラ協会の民族学部会としてこの地域を研究するチームが結成された。発案者はその長となり、ポトハレの民俗学研究を組織した。タトラ山岳民の他に、彼はハンガリー領だったオラヴァやスピシュ地方の人々にも関心を抱いた。ザコパネでピウスツキは遠い親戚であるスタニスワフ・ヴィトキェヴィチと知り合った。ピウスツキが山岳民の研究を始めたのは、主にこの人物の影響によるものだった。ブロニスワフは、展示物の収集と展示会を行うのに適した、タトラ博物館の新館の建設を推し進めた。1888年に設立された博物館は、当時民間の建物に収容されており、図書室と会議室は別の場所にあった。新館と民族学展示の設計指針を作成したのは、スタニスワフ・ヴィトキェヴィチである。画家、作家、建築家として知られ、いわゆるザコパネ様式の創始者であるこの人物が建設を監督し、1913年8月3日に礎石が据えられた。ピウスツキはブリュッセルに滞在していたため、この式典には出席できなかった。新館建設には、前述のザモイスキが多額の資金を提供した。建設が決定してから10年以上経った1922年、ピウスツキの死後に工事は完了した。博物館内には、ピウスツキが1912年と1913年に収集した170点の工芸品が展示されている。
ピウスツキが山岳民に博物館への資料寄贈を訴えたところ、多くの山岳民が快く応じてくれた。ある者は俗物根性で、またある者は彼に対する尊敬の念ゆえに応じたのである。ズボロフスキはこう回想している。「ピウスツキは古い「祖父の品」、つまりもう使われなくなったものを無償で引き取るユニークな才能を持っていた。」寄贈者は生涯、博物館の入場料が無料になった。ピウスツキはポーランド山岳民の研究を進める中で、祖国が独立を取り戻すと同時に、彼らの中にポーランド人社会の一員となる覚悟を呼び覚まそうとした。彼は、タトラ博物館の民族学部会がこの地域で果たすべき役割は大きいと信じていた。
1912年4月中旬、彼はザコパネとクジニツェの中間に位置する、当時は小さな村だったブィストレにある医師タデウシュ・コルニウォヴィチ所有の別荘に移り住んだ。コルニウォヴィチはブロニスワフの友人で、タトラ協会民族学部会のメンバーだった。この18年後、ピウスツキの蝋管がコルニウォヴィチュフカとして知られるこの別荘の屋根裏から発見された。彼が住んでいた部屋の壁には、リトアニアを代表する風景画家アドマス・ヴァルナスの描いた肖像画が飾られていた。ヴァルナスは、サンクト・ペテルブルク、クラクフ、ジュネーブで絵画を学んだ。彼はザコパネでピウスツキと出会い、その地のステファン・ジェロムスキの家でアイヌの衣装を着たピウスツキの肖像画を描いた、と回想録に書いている。この時ピウスツキは46歳だった。なお、1911年から1912年にかけてパリで執筆されたジェロムスキの小説『生きることの素晴らしさ』の中で、グスタフ・ベズミャンという登場人物が、ピウスツキから聞いた話の影響の下に創造されていることは確かである。この小説は2点をテーマにしている。即ち、異質な環境に投げ出されて、既にそれに同化してしまった人間が民族意識を回復することと、長い年月の不在を経て戻ってきた祖国で自分の居場所を探すことである。
1913年1月からピウスツキは、ヌーシャテル大学の講義に聴講生として出席した。これは短期間だったため、学位取得が目的ではなく、タトラ博物館を念頭に置いた博物館学の習得に意欲的であったと考えられる。札幌、東京、ニューヨーク、プラハ、ウィーン、ベルリン、パリ、ロンドン、ブリュッセルなど、彼が数多くの博物館を訪問したことを想起すべきである。彼はロシアと西欧で得た博物館学の知識と技術を、ポーランドで駆使したのである。1911年、ピウスツキは「民族学の課題と方法について」と題する報告を行い、翌年には「ザコパネの博物館のための民族学資料収集のさまざまな方法について」、「スロヴァキア旅行の印象」、「日本の思い出」の3本の報告を行った。さらに彼は企画した雑誌『ポトハレ年報』の創刊者であり、その編集長を務めた。彼が準備したその第一巻が出版されたのは、残念ながらその死後であった。
1916年、スイス民族学会の紀要は、「タトラ山脈における高山地帯の牧畜」というドイツ語論文を掲載して、ピウスツキの山岳民に関する調査成果を発表した。彼はその一年前にスイスに来た。とりわけチューリヒでは、親戚にあたるガブリエル・ナルトヴィチの家に住んでいたが、ピウスツキの居住地は主に近郊のラッパースヴィルだった。ここには、設備の整った図書館を併設したポーランド博物館があった。彼はここに最もよく滞在し、本を読んだり、文章を書いたりして、充実感を味わっていた。
典拠
アントニ・クチンスキ「ブロニスワフ・ピウスツキ(1866–1918) 流刑囚にして極東民族の文化の研究者」『独立と記憶』22/2 (50)、7–93頁、2015年(ポーランド語)
沢田和彦『ブロニスワフ・ピウスツキ伝 〈アイヌ王〉と呼ばれたポーランド人』成文社、2019年(日本語)
沢田和彦『ブロニスワフ・ピウスツキ伝 〈アイヌ王〉と呼ばれたポーランド人』スレユヴェク、2021 年(ポーランド語)