自然科学

気象学とサハリンの自然とブロニスワフ・ピウスツキ

POWRÓT
活動

ヴィトルド・アルモンの『ポーランド人名辞典』(1981年)には、ブロニスワフ・ピウスツキについて次のような記載がある。

「1894年から1896年にかけて、彼は地元の測候所で気象観測を行い、その観測結果を1895年と1896年の『サハリン要覧』に発表した。これがピウスツキの著述家としてのデビューとなった。また1894年には、ハバロフスクに新設された博物館のために、植物学の研究を行なった(この件に関しては1897年からベネディクト・ディボフスキと文通をしていた)。アレクサンドロフスク在住の政治流刑囚で、後にロシアの著名な民族学者となるL. J. シュテルンベルグから最初の教示と文献、そして激励を受け取った。」

一般にピウスツキは、どちらかといえば民族学者、人類学者として知られているだけに、これは非常に興味深いテーマである。彼の活動領域を見てみよう。

ロシアが支配するサハリンの開発は、19世紀半ばに始まった。この島は極東における多大なる戦略的重要性を有していた。その港は、本土の集落と千島列島やカムチャッカの島々との交通を円滑にした。

それゆえ、島の天候を形成する重要な要因を知ることは非常に重要であった。そのため、島の行政当局は比較的早くから港や内陸部に測候所を設置した。当初は軍人が運用するのが一般的だった。1853年から1854年にかけて、N. ルダノフスキー中尉がムラヴィヨフ哨所で基本的な気象データ(気温、風向き、降水量)を記録した。この観測者は1855年から1857年まで、島の中央部の石炭鉱床にある最古の流刑地、ドゥエ居住区に勤務していた。1861年にはマルガソフ中佐がサハリン南部のクスンナイ哨所で、1868年から1869年にかけてはF. デプレラドヴィチ中佐が島の最南端ブッセ湖畔のムラヴェイスク哨所で気象データを記録している。港にある重要なコルサコフ哨所では、軍医U. ビエリンスキが定期的に(1871–1872年)気象観測を行っていた。これらの、基本的に杜撰な測定の結果は、M. ミツリによってまとめられ、年間平均気温が決定された。

サハリンでは1881年に地元の医務局の仕事の一部として、体系的な気象観測が始まった。P. スルネンコがアレクサンドロフスク哨所の近くのコルサコフカ集落に小さな測候所を建設したのはその時である。1886年、この医師の努力により、ルィコフスコエ村に測候所が設置された。当時の責任者は、軍医M. クシジェフスキだった。ルィコフスコエ測候所の観測者は、その年によって以下の通りである。I. ユヴァチョーフ(ピウスツキと同じ船で到着した4人の政治流刑囚の一人)、B. ピウスツキ、N. ペルラシュケヴィチ。毎日の観測結果は、サンクト・ペテルブルクの中央自然観測所の定期刊行物で発表され、現在の気象データ(月単位)は毎年地元の雑誌に掲載された。その後、サハリン南部では1893年にクリリオン灯台、1896年から1898年にかけてマウカ、ナヨロ、シラウラ、ガルキノ=ヴラスコエ、ルトガなどの集落と、コルサコフとチフメネフスクの哨所に気象観測所のネットワークが構築された。

アレクサンドロフスク村の測候所の写真、ポーランド芸術・科学アカデミー所蔵のブロニスワフ・ピウスツキのサハリン写真アルバムより
測候所の玄関にいるピウスツキの教え子の、入植者の息子たちの写真、ポーランド芸術・科学アカデミー所蔵のブロニスワフ・ピウスツキのサハリン写真アルバムより

コルサコフ哨所とガルキノ=ヴラスコエ集落の測候所の建設は、ブロニスワフ・ピウスツキが直接管轄していた。サハリン軍総督府のある文書には、ピウスツキが「(サハリン島にとって)非常に有用な人物として知られるようになった」と記されている。この記述は、彼が以前ルィコフスコエ測候所で行った調査や、アレクサンドロフスクにあるサハリン博物館の発展と運営に大きく貢献したことが影響している。

そのため、島の南部に新しい観測所を設置する際、この分野で豊富な経験を持つブロニスワフ・ピウスツキに白羽の矢が立ったのである。しかも、彼は島内の他の測候所の仕事についても知識を持ち合わせていた。彼は定期的に総督府の医師と交代してデータを集めていた。これをもとにしてピウスツキは測候所の業務に関する特別な説明書を作成し、測定者の義務について特別に定義づけを行った。この説明書の中で彼は、前述の『サハリン要覧』に掲載された自身の文章などに言及している。

1874年版の天気図の写し

1896年6月下旬、必要な機材を受け取ったブロニスワフ・ピウスツキは、ルィコフスコエの集落からコルサコフ哨所に向かった。ピウスツキは、測候所の各施設に適した場所を選定し、専用の建物を購入または建設し、測量機器を設置し、観測隊を編成して、基本的な作業を教えるよう指示されていた。当局は、測候所が近代的な気象台の基準をすべて満たしていることを確認しようとした。そのため、当局はピウスツキに、高さ15メートルまでの風速計のついたマストを建て、雨量計、亜鉛メッキの計器室、サイフォン式気圧計、パデ式アネロイド、赤経計、太陽フィルター、各種温度計(地温測定用を含む)等を設置するよう指示した。

同時に、ピウスツキは自然科学の教育を受けた訳ではなく、独学とルィコフスコエ測候所での経験によって、必要な気象・気候学の知識を獲得していったことを忘れてはならない。

夏のうちにすべての作業が終了した。ピウスツキがその学術的重要性を認識して、この活動にいかに真剣に取り組んだかは、トムスクの国立ロシア極東中央文書館に保存されている彼の文書と、測候所の詳細な記述からうかがい知ることができる。その中で彼は、島の気候の研究と気象の予測は、測候所の所員の勤勉さと正確さに大きく依存することを強調している。そこで、サンクト・ペテルブルク近郊のプルコヴォにある中央自然気象台の全般的な指示を、サハリンに新設される気象台の特定のニーズに適用することにした。彼はこの説明書に、観測者の日常業務、活動記録の記し方とその書式、月報と年報の提出方法、その他必要な書類に記載すべき他のデータなどを簡単明瞭に示した。

ピウスツキは、コルサコフの測候所と同様に、1896年秋に運用を開始したガルキノ=ヴラスコエ集落の測候所を同様の方法で作った。

ブロニスワフ・ピウスツキが1896年にルィコフスコエからサハリン南部に出発したことは、その後の彼の研究のあり方に根本的な影響を与えた。この時、彼は島の南部に住むアイヌ人たちと出会ったからである。

アイヌ人たちの悲劇的な運命を知った彼は、彼らのためにこそ自分の時間と創造力を捧げなければならないと悟った。測候所での作業は、ピウスツキの訓練を受けた観測員たちによって続けられた。

典拠

ヴラディスラフ・ラティシェフ、ズビグニェフ・ヴイツィク「ブロニスワフ・ピウスツキの学術活動の自然な始まり」『独立と記憶』第III年、第2 (6) 号、1996年(ポーランド語)

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