博物館学

現代の博物館学

POWRÓT
活動

「私は3年間ウラジオストクの大きな博物館の学芸員でした。そして日本・アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・オーストリアなどさまざまな国のいくつかの博物館を訪問しましたが、今年は私たちのタトラ博物館のことを考えてプラハ・スイス・ベルギーの博物館をより詳しく知ろうとしました博物館学をテーマにした特定の本や記事やレポートもたくさん読みました。」とブロニスワフ・ピウスツキはタトラ博物館の「民族学部の課題と管理方法について」についての記事に書きました。

1913年初めからブロニスワフはスイス西部の人口2万人の小さな町ヌーシャテルに滞在しました。なぜこの場所を選んだのか定かではありませんがブロニスワフはその4年前にパリで知り合ったと思われるフランスの文化人類学者でヌーシャテル大学教授アルノルト・ファン・へネップに招かれた可能性があります。ブロニスワフはヌーシャテル大学の聴講生として学びました。しかし滞在期間が短かいことから学位取得を目的としたものではなくどちらかといえばタトラ博物館を念頭に置いて博物館学を熱心に勉強しました。財務係でブロニスワフ不在時にタトラ協会民族学部会長代理となったブロニスワヴァ・ギジツカ宛の手紙の一つで彼は次のように述べています。

博物館にある物品の写真は非常に貴重です。現在すべての博物館はそれらの写真を個別に撮りそれに説明をつけています。ですから私たちもそのような写真カードのカタログを作る必要があります。それがなければ博物館のコレクションに科学的な価値はないからです。一つのパターンを選び様々な質問項目にできるだけ詳しい説明をつけたカードを印刷するのです。写真とともにそれはイラスト入りの美しいカタログになります。ネガは博物館に残ると思います。その後は他の博物館と写真カードを交換することができます。これはプラハとスイスのバゼルが非常に望んでいたことです。すぐに説明を始めたい場合は幾つかの博物館のカタログから写真カードのサンプルを送ることができます。」

最初のカタログの表紙

タトラ博物館の民族学的コレクションの最初のカタログは1907年にタトラ博物館協会の主導で作成されました。それはカジミェシュ・ブジョジョフスキが編集しタトラ博物館から出版されました。5年後ブロニスワフ・ピウスツキは当時の博物館のコレクションを整理し一時的なナンバリングを導入して新しく購入したコレクションを収蔵品目録に記載しました。

彼はコレクションの収蔵品目録への記載は特別な規則に従い行われるべきと考え、翌年には覚書の「タトラ博物館について・民族学部会の整理について」でそれを提示しました。(ポドハレ年刊”Rocznik Podhalański” [1]:1914-1921921, pp. 147-188)。また彼はその覚書の中で博物館も分類しました。

「過去に民族学博物館は多かれ少なかれ整然としたより価値のあるまたは偶然に収集され寄贈された物品のコレクションを展示していました。それらの役目は画廊の絵と同様に展示されて心地よい印象を与え好奇心や興味を呼び起こすことでした。

しかし現在博物館学はその当初の考えから離れより広くより重要な目標を掲げています。

民族学博物館および比較民族学博物館、すなわち民族学(ドイツ語でVdlkerkimde)は物品を収集し地理的または比較の原則に従いそれらを分類しながら人間そして世界の民族を知る機会を与えようとしています。

国立博物館(ドイツ語Mus. Der Volkskunde)は1つの国の古代と前代そして現代の生活を認識させようとしています。最後に民族学と歴史学と自然史から成り立つ地方の博物館(フランス人はそれらをmusees canionaitaという)はその地域の文化の独自性を標本で提示し、かつその地方の科学的活動と研究の中心であると同時に知識や教育や社会的利点を広める機関でもあり、大人にとっては子供のための学校のコレクションで「物についての勉強」のようなものです。」

このように博物館は感銘を与えるだけでなく教育の場でもありました。彼はギジツカに宛てた手紙の中で今日の「大衆化」にあたる博物館の運営計画について述べ、それは現代のその運営法と大差なく同時にコレクションの拡大を可能にして更なる地域社会との関係の構築を提案しました。

私たちの仕事により多くの観客が興味を示す方法を考えて私は提案します。私は次のプランを発表します。5月にまたは遅くとも6月にコンペティションを公表すること、1つ目はポトハレ地方(スピシュとオラヴァ)に関連する写真と絵画、そして2つ目はポトハレ地方の暮らしに関わる物についてです。次にこれらの物品の展示会を7月15 日、8月1日か(または他の最も適切な日に) 夏休みの終わりに開催し、各部門で3〜5つの賞を授与します。写真のコンペティションではポトハレ地方(スピシュとオラヴァ)のさまざまな村の、例えば建物の写真のシリーズで参加する人を優先します。また家の内装のシリーズ、高齢者をテーマとしたシリーズ、慶事(遊びや結婚式)、畑の仕事、家での生活、家内産業または1つの村か街のシリーズなど。絵に関してはブジェガ氏が例えば“松の木”“古い家に刻まれた碑文の一連のコピー”などのアイディアを提案するかも知れません。写真にできるだけ広範囲にかつ正確な説明をつける人を優先します。暮らしに関わる物に関する賞の授与は、ポトハレ地方の住民と地元の人たちや博物館にない標本となる作品をコンペティションや展示会に出品する人々、およびその物に関する起源や使用方法および習慣についてできるだけ詳細な説明を提供する人々を優先します。最初の発表の時点で賞品は決まっていません。なぜならまず善意の人々に賞金や様々な適当な出版物の寄付を呼びかけなければならないからです。例えばワルシャワの観光協会に年1回発行する雑誌「地球」の提供を頼んだり、ジェドゥシツキ博物館にフツイ馬を頼んだり、リヴィウ市の観光協会に出版物の何冊かを頼んだり、もしかしたらポズナニ市の科学協会が、ハウビニスキ博物館とか私たちの民族学部会が50クローネを提供するからです。

若者たちを活気付けるという目標は達成され、彼らにはバカンス中に目的ある仕事が与えられます。そして博物館は多くの物品を購入したりそれらを研究したりそれらの写真を撮ることができます。また展覧会用に写真を提供した人にお願いして写真集をつくれるし出版にもとても役立つでしょう。何度も開催される展覧会はさまざまな仕事を生みだし私たちが全く知らない多くの人々を組織化します。また多くの羊を飼う農家も自分の古い持ち物を探し出し賞品目当てでそれらを見せてくれるかもしれません。」

他の文書で彼はまた「このタイプのコンペティションの主な目的は物品の収集であるべき」と指摘しました。

 「談話や講演がなくても心配する必要はありません。なぜならそれは従属的なものだからです。重要なのは数人の誠実な人々が資料を集めること、様々な場所で興味深い人々を見つけることです。」

彼はまたプロモーションのアイデアも持っていました。

「今年は新聞のドキュメンタリー部に売り込んでお金を稼ぐために、誰かを探して談話や講演を実施してその要約を作るのが良いでしょう。」

ブロニスワフ・ピウスツキが考えた彼自身の博物館学のアイディアを今風に言えば、彼はコレクションやそのコレクションの整理や共有を博物館の主な活動にしていました。そして地域社会を参加させ教育とその普及を追加活動とし、かつイベントをメディアで公表していました。ひとことで言えば現代の博物館なのです。

参考文献:

マウゴジャタ・クフィエチニスカ 「タトラ協会の民族学部門に関するブロニスワヴァ・ギジツカとブロニスワフ・ピウスツキの書簡、『Wierchy』、 Vol. LXXXVII (2021)、 173-196ページ」

ブロニスワフ・ピウスツキ 「ザコパネのT.チャウビンスキ・タトラ博物館 : 『民族学部の課題と管理方法について』、クラクフ1915年」

澤田和彦 「ブロニスワフ・ピウスツキの物語。アイヌの王、スレヨウェクと名付けられたポーランド人、スレヨウェク 2021年」

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