民族学

ニヴフ人

POWRÓT
活動

ブロニスワフ・ピウスツキは、サハリンで自然に島の先住民に興味を持ったが、やがて彼らの生活や習慣を観察し、言葉を学び、植民地化の過程で隷属させられた人々をいかに助けるか、非情な政治過程で彼らの生活に課せられた負担をいかに軽減するか、を考えることに情熱を傾けるようになった。偶然ピウスツキがサハリンに滞在している間に、ロシアと、程度は低いが日本も彼らのことを知り、何らかの植民地化計画を立てることを重要視するようになったのである。

ピウスツキが最初に収容されたルィコフスコエ流刑地は、アレクサンドロフスク港から十数キロ離れていたが、ここにもニヴフ(当時は「ギリヤーク」と呼ばれていた)人の集落があった。ピウスツキはルィコフスコエでのいつもの仕事で彼らと出会った。彼らは道案内、通訳、漕ぎ手、魚の運搬などで、行政の活動を助けていた。

ルィコフスコエ村の通りの写真、ポーランド芸術・科学アカデミー所蔵のブロニスワフ・ピウスツキのサハリン写真アルバムより

ピウスツキはルィコフスコエでの最初の一年間は、まず大工の作業場で働き、1889年の春からは刑務所の事務室で働くことになった。それと並行して、1888年からはロシア人入植者や役人の子どもたちを教えていた。

ピウスツキは日常的にニヴフ人に会い、彼らと会話を交わしながら、少しずつ彼らの言葉を習得していった。ニヴフ語は非常に難解とされているが、ピウスツキにとっては、少年時代にズーウフでリトアニア語に触れていたこともあり、習得がより容易だった可能性が高い。ピウスツキの驚くべき近づきやすさ、穏やかな性格、素朴な態度ゆえに、ニヴフ人たちは彼に接近しようとした。

1890年、運命はルィコフスコエのもとにナロードニキのレフ・ヤーコヴレヴィチ・シュテルンベルグを呼び寄せた。この人物はピウスツキと同じように、しかしより精力的に独自の民族学調査を行っていた。ピウスツキはシュテルンベルグとの面会と会話に影響を受けて、言語資料や物品を体系的に収集し、発話を注意深く記録し、歌謡や民話、風俗に関するコメントを記録するようになった。

数年にわたる体系的な調査の結果、ニヴフ人の口承文芸と風俗習慣のユニークな記録が出来上がったのである。

ピウスツキは、この少数民族の将来を大いなる同情の念を持って考え、その運命を、帝政ロシアの体制下で抑圧された他の少数民族の運命と関連づけながら、1898年に発表した「樺太ギリヤークの困窮と欲求」という、入念に調査した優れた論文に自分の所見を集約している。この論文はピウスツキの研究継続に道を開き、ウラジオストクの博物館の資料管理人の地位と、権威ある、勢い盛んなロシア地理学協会のウラジオストク支部の書記の地位を彼に与える、という決定に影響を及ぼした。

「ギリヤークの詩歌」のタイトルページ。

1899年、彼はウラジオストクの博物館の資料管理人となり、同時にロシア地理学協会のウラジオストク支部の書記を務めた。この常勤職により、B. ピウスツキは数年前に収集した資料を体系化し、空白を埋め、より深い民族学研究を行うことができた。1903年には、W. シェロシェフスキとともに北海道に渡り、そこに住むアイヌ人の言語学的・民族学的調査を行った。

しかし、1906年にポーランドに到着したB. ピウスツキは、ヴィリニュスにも、シフェンチャヌィ郡のズーウフにも戻ることができなかった。彼はクラクフに滞在し、そこで民族学資料に手を入れて仕上げることができると考えたのである。だが、それは間違いであった。クラクフに滞在している間、彼は定職に就くことができなかった。しかし、経済的な問題にもかかわらず、B. ピウスツキは民族学への関心をおろそかにはしなかった。ポトハレで民族学的調査を行い、1911年にはザコパネにタトラ協会の民族学部会を設立している。

この時期、ピウスツキはユリウシュ・ズボロフスキと出会う。この人物は何年も後に『大地』(1934年、第1–4号、1頁)でピウスツキのことを、「ノヴィ・タルク周辺を徘徊する、ポトハレの恋人」と表現することになる。ピウスツキはクラクフとザコパネに交互に住みながら、サハリンで収集した資料に取り組んだ。言語学者ヤン・ロズヴァドフスキの多大な協力を得て、アイヌのフォークロアと言語に関する著作『アイヌの言語とフォークロア研究資料』(クラクフ、1912年)を出版する準備を整えた。本書は今日に至るまでこの分野の基本的な出版物となっている。また、民族学雑誌『民族』に「樺太アイヌのシャーマニズム」(『民族』1909年、第14巻、261–274頁。同誌、1910年、第16巻、117–132頁)、「ギリヤークの詩歌」(同誌、1911年、第17巻、95–123頁)、「ギリヤークとアイヌの間のライ病」(同誌、1912年、第18巻、79–91頁)という論文を発表している。

ピウスツキの研究成果は、ポーランド内外の民族学者の間で彼のことを広く知らしめることとなった。しかし残念なことに、ピウスツキは大学を卒業していないことがネックとなって、クラクフの大学に採用されることはなかった。第一次世界大戦中、彼はポーランドを離れて、スイス、そしてパリに滞在し、1918年に悲劇的な死を遂げた。

B. ピウスツキの著作はさほど多くはないが、彼が書いたものがこの分野の文献中で重要な価値を有していることは間違いない。熊信仰に関する彼の研究は、この問題の研究者であるA. F. アニーシモフ(1950年、309、313–314、318頁)によって、またサハリンの先住民に関する彼の研究は、M. G. レーヴィン(1958年、123–124頁)によって、それぞれ引用されている。B. ピウスツキの研究を見る時、彼の出版物はサハリンと北海道で収集した膨大な資料の一部に過ぎないことを常に念頭に置いておかなければならない。民族学的な資料だけでなく、昔話や寓話、歌謡などのテキストも収集しており、これらはフォークロア研究にとって非常に重要なものである。ピウスツキは、ニヴフ人の言語とフォークロアに関するこれらのコレクションの一部を、ロシア人流刑囚で友人のL. シュテルンベルグに渡した。ピウスツキは彼とともにこの民族の文化を研究していた。

B. ピウスツキが記録したギリヤーク語の詩歌4編は、L. シュテルンベルグがサンクト・ペテルブルクで1908年に出版した『ギリヤークの言語とフォークロア研究資料』に収録されているが、著者はその記録の由来を序文で述べるにとどめている。B. ピウスツキが収集した資料の一部は草稿の状態で残され、ソ連科学アカデミー文書館のグループ・フォンド282の142番に、B. ピウスツキ、L. シュテルンベルグ「ギリヤークのテキスト」として保管されている(I. S. ヴドーヴィン、1954年、163頁。R. ヤコブソン、G. ヒュットル=ワース、J. F. ビービ、1957年、100頁)。

B. ピウスツキがポーランドに持ち込んだ、アイヌの歌謡を録音した蓄音機の蝋管には、別の歴史がある。しばらくの間紛失したと思われていたが、イェジ・バンチェロフスキが論文「蓄音機によるアイヌの記録」(『フォノグラフィー紀要』1964年、第VI号、91–96頁)で述べているように、蝋管は発見されたのである。

この傑出したポーランド人は、サハリンの先住民のもとに滞在して、彼らの生活環境を改善しようとし、彼らの文化を尊重することを要求し、ロシアの役人の賄賂と闘った。彼の散漫なメモの中に、地元住民に対する彼の非常に前向きで思いやりのある態度を反映した、短い文章が残されている。

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