大きな政治
ネヴァ川沿いの都市でのブロニスワフ・ピウスツキについて – 学生生活、皇帝暗殺未遂事件、その裁判と判決
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1885年8月にブロニスワフ・ピウスツキはサンクト・ペテルブルクに向かいそこで高校の試験に合格しました。彼は複雑な感情を抱きながらそこに行き、それについて学校の日誌に適切な記述があります。1885年8月3日の日付で次のように書いています。
「時々この意地悪な人たちから離れると思うと気持ちが軽くなりただ去ることだけを考える。でもその一方で僕が去ることで多くのものを失う人たちのことを考えると本当に離れたくないんだ。
そして彼らが損してしまうのは間違いない。それは私の推測ではない、なぜなら誰もが私にそう言うからだ。家庭ではほとんどすべての人の世話をした人を失い、彼に代わる人がいないので、その損失はますます大きくなるだろう。私の学友や他の友だちは良い友を失うだろうし、そして彼らの中で取るに足らない者を失う。私が関係があり、私に好感を持っていた親戚や知人のほぼすべての人が私に愛情を感じていたので、また私は常に彼らを助け彼らが必要とする限り奉仕しようとしたので、私がいなくなったら寂しがるだろう。私は多くの理由でここで卒業するほうがいいと思うが、仕方がない、留年することができない。特に今年はもっとたくさんやっていただろうにと、すべてを申し訳なく思う。」
ブロニスワフは1885年8月19日にサンクト・ペテルブルクに到着しました。さまざまな人々への推薦状を持っていたブロニスワフは彼らのところに滞在し、中学校への入学に関連する手続きや恒久的な下宿先を探し、街の探訪を始めたのです。彼は日記に次のように書いています。「サンクト・ペテルブルクはその巨大さに驚かされた。夕食後ジグムシュ君と一緒に散歩したりスケートをした。彼は私に街の歩き方を教えてくれた。」
1885年9月1日に彼は第5中学校で教育を開始し、その月の終わりの、つまり9月28日にはすでに教師たちから「良い評判」を得ていると書いています。
「…物理学と宇宙論で、今週はテストを受けなければならない。絶対に成功するはずだ、もっと勉強するぞ。仕事を通して、私はこのすべてを証明したといえるから、仕事を通して私はさらに進むだろう、だからこそ私は事前の努力だけでこの大した知識ではないものを習得したが、現在の同僚と相対的に比べてみると小さくない知識を得たのだ。ここの数学の先生のポーランド人のザクジェフスキ先生はどうやら私を守ってくれているようでとても良いことをしてくれている。」
当時しばしば北のパリと呼ばれていたサンクト・ペテルブルクのネヴァ川沿いの都市はブロニスワフを魅了しました。到着から1年後に彼は高校の卒業試験に合格して地元の大学の法学部に入学しました。同時に「人民の意志」党のテロ・フラクションはテロこそ政治闘争で唯一効果的な方法であると考え活動を開始し皇帝アレクサンドル3世の暗殺準備に着手したのです。19世紀の70年代からは「人民の意志」党が発したいわゆる「人民の意志」運動に触発された革命的なムードが帝政ロシアで活発化しました。この運動の歴史で頂点だった出来事は、1881年3月にポーランド人イグナツィ・フリニェヴィエツキが投げた爆弾により亡くなった皇帝アレクサンドル2世の暗殺でした。
皇帝アレクサンドル3世の暗殺を狙った組織の首謀者はウラジーミル・レーニンの兄で、当時サンクト・ペテルブルク大学の学生だったアレクサンドル・ウリヤーノフでした。1886年にヴィルノ出身で同大学の学生でもあったユゼフ・ウカシェヴィチと知り合いだったブロニスワフ・ピウスツキは皇帝アレクサンドル3世を将来暗殺する者の輪に入ったのです。
その暗殺は1887年3月1日に皇帝がペトロパブロフスク大聖堂でのアレクサンドル2世の6回目の命日のセレモニーの終了後にネフスキー大通りを帰るときに予定されていました。2月の初めにブロニスワフ・ピウスツキはヴィルノで過ごした冬休みからサンクト・ペテルブルクに戻りました。そして2月28日から3月1日までヴァシレフスカ島の4号館7号室の彼の部屋でウリヤーノフの同僚たちは「人民の意志」党のテロ・フラクションの宣言と革命プロパガンダのチラシを印刷していました。チラシはさまざまな場所で印刷されていましたが、ブロニスワフ・ピウスツキの下宿は当局の管理を受けていない唯一のアパートであり人々は自由に出入りできました。警察は皇帝の暗殺計画についてすでに知っていました。ですから暗殺を企てている者たちはその監視下にありました。そして3月1日日曜日に彼らは爆弾を投げるために潜んでいたところを逮捕されたのです。彼らはアンドレーユシュキン、ゲェネラーロフ、オシパーノフ、カンチェル、ヴォーロホフ、ゴルクンでした。集中的な捜査が行われさらに多くの共謀者が逮捕されました。カンチェルは警察に協力し自分自身により寛大な判決を得たいと考えブロニスワフ・ピウスツキは彼のアパートで行われた会議の目的を知っていて共謀者の一人だったと証言したのです。そして3月2日から3日にかけての深夜にブロニスワフ・ピウスツキのアパートで秘密の印刷所が発見され彼も逮捕されてペトロパブロフスク要塞の独房に投獄されたのです。
すでにこの年の4月にはサンクト・ペテルブルクの上院裁判所で厳しい判決が下されました。ブロニスワフ・ピウスツキに加えて他の数人のポーランド人も抑圧されました。ウカシェヴィチとブロニスワフ・ピウスツキは当初死刑を宣告されましたが、後にウカシェヴィチはシュリッセルブルク要塞での終身刑に減刑され、ブロニスワフ・ピウスツキはサハリンでの15年間の重労働を強いられました。その後ユゼフ・ウカシェヴィチは1905年に刑務所から釈放されました。そして彼は大学を卒業しヴィルノのステファン・バトリー大学で地質学の教授を務めました。彼は1928年10月23日に亡くなりました。
5人のロシア人が絞首刑で死刑を執行されました。それ以外の他の人々に対しては当初の判決が軽減されました。その囚人の中にはウラジーミル・レーニンの兄弟であるアレクサンドル・ウリヤーノフがいました。最新の資料に照らし合わせると、ブロニスワフ・ピウスツキは皇帝の暗殺準備の陰謀について知っていたことが知られています。サンクト・ペテルブルクの彼のアパートでアレクサンドル・ウリヤーノフは「人民の意志」党のテロ・フラクションのプログラム宣伝を印刷していました。またブロニスワフ・ピウスツキは共謀者たちが爆弾を作るために必要な様々な化学材料を購入するためにヴィルノの友人たちの住所を教えました。その後ヴィルノに到着したその共謀者たちの目的を知らないままユゼフ・ピウスツキは彼らの世話をしたために、いわゆる独立裁判でシベリアへの5年間の追放を宣告されました。
ブロニスワフ・ピウスツキが投獄されてから(1887年3月3日)サハリンに送られるまで(1887年6月)、ブロニスワフの父は判決の軽減と刑期の条件を緩和するために奔走しました。皇帝と法務大臣への公式の嘆願に加えて、ブロニスワフの父の親戚で皇帝の宮廷でまたは警察や司法で影響力を持つ人々にもお願いしていたのです。これらの努力のために、ペテロパウロ要塞に投獄された被告ブロニスワフの命を救うためにかなりの金額を費やしたという説さえありました。ヴィルノで逮捕されたユゼフ・ピウスツキもその年の3月20日からそこにいました。取り調べが進む間にも、ブロニスワフの父はブロニスワフに会う許可を得ました。最初は3月28日に、第2回は3月31日に、次は4月11日に、そして最後の3回は1887年5月2日と8日と12日に会いました。その上、遠くから、鉄道の駅で、彼は再び息子を見た、今回は最後に、ブロニスワフが追放先に出発するときでした:「彼は長い間立ったまま、警察と軍隊の非常線に囲まれた広場で長い間待っていた。ついに、刑務所の移送車が到着した。死刑囚たちは、間違いなく既に足かせをはめられていたが、一人また一人と出て行った。ブロニシュ(ブロニスワフ)が振り返ると、群衆の中に彼の父がいた…」
1887年4月25日に発表された最初の判決ではすべての被告に死刑が宣告されました。同時に法務大臣のオフィスを通して刑の軽減を求める請願書が皇帝に送られました。また恩赦願いを申請する人々はその要求を自分で書くことになっていてそれは省が評価することになっていました。同じようにブロニスワフの父は心配して息子を救おうと皇帝アレクサンドル3世に請願書を送り、その中で次のように書いています。
「最も寛大なる皇帝陛下へ
皇帝陛下の無限のお慈悲を深く信仰する心に包まれて、私は陛下に、上院裁判所の決定によって宣告された私の息子の刑を軽減してくださいますよう懇願いたします。彼の罪は重大ですが、それは未成年者ゆえの軽率さと、彼が共通の「目標」を共有しておらず、彼が認識していなかった悪党の集団に属する彼の大学の同僚の行動の目標に対する無知から起きたことです。どうかこの不幸な出来事によって落ち込んでいる父親の元に息子を戻し、そして彼がこれからの人生で、一時的な過ちで裁判所で表した服従義務への忠誠と揺るがぬ従順の思いを証明できる可能性をお与えください。そしてこれほど困難な人生経験をしましたが、彼は死ぬまでそれらを守ります。
皇帝陛下の忠実な臣民であるユゼフ・ピウスツキより、サンクト・ペテルブルクにて、1887年4月23日」
これらの努力を続け、皇帝に宛てた請願からわずか3日後にまたブロニスワフの父は「国家の真実と正義を代表する」人物として法務大臣に同様の請願を自ら提出するつもりでした。しかし会うことができなくなったので彼はこの願いを書面で提出しました。
「法務大臣閣下
添付にいくつかの言葉をたし添えた陛下宛ての請願書を閣下に直接お渡しする機会を失った私は、ペンを使って最も謙虚な願いを伝えることを余儀なくされております。私の不安な状況は、特異な上院の決定によって私が父親として置かれている状況を、これらの短い文章で閣下にあえて呼びかけることをお許しください。国家の真実と正義の代表者の先頭に立っている人よりも誰よりも、私は閣下に、捜査判事の告発によって引き起こされた囚人の自白の誠実さを信じていただきたいのです。息子は現在も将来もテロを公言する党とのいかなる連帯も拒否すると深く後悔しています。もしお慈悲深い陛下が私の息子を私の元に戻してくださるなら、彼が刑期を終えた後に社会復帰を宣告されたら、彼は彼に示されたそのお慈悲に生涯報いると私は確信しております。改めまして異常な状況下による私の大胆さをお許しください。
私は閣下の忠実な臣民であることを光栄に思います。ユゼフ・ピウスツキ
サンクトペテルブルク1887年4月26日」
法務大臣に宛てられた請願の2日目に彼は新しい手紙を書き、その中にも息子の運命に対する彼の懸念が再び表現されており、次のように書いています。
「15年間の懲役刑は実際には死刑であり、それはより消耗する形で、その間すべての肉体的および精神的な力を最終的に使い果たすまで苦痛が続く」
皇帝と法務大臣に宛てた請願は未回答のままでした。それらはおそらく刑の軽減に関する最終決定に何の影響も与えなかったのでしょう。結局皇帝はブロニスワフ・ピウスツキと他の被告人に対し恩赦を行い、当初科せられた死刑は15年の重労働に減刑されました。ユゼフ・ピウスツキ(ジューク)も被告人としてこの裁判を受け、法務大臣の命令で、すなわちいわゆる行政手続きにより、東シベリアへの5年間の追放が科せられました。このことで短期間に父親のユゼフ・ピウスツキは大変な打撃を受けました。2人の息子がシベリアに追放となったからです。