活動

スプィニャ

POWRÓT
活動

スプィニャは、ブロニスワフ・ピウスツキの学校時代に重要な陰謀の経験となった。これはヴィリニュスで最初の未公認のポーランド語図書館であり、同時にユゼフ・ピウスツキと彼の中学校の同僚たちにとっては、その活動への参加は公的活動の第一歩であった。ブロニスワフにとっては、教育の組織化と図書館作りの経験を積むことができた。彼はサハリンでこの経験を生かして、ニヴフ人、オロッコ人、アイヌ人の子どもたちのための学校をつくった。

1882年、手に負えないピウスツキ兄弟とポーランド人生徒たちは、「スプィニャ」と呼ばれる自主教育グループを組織した。 「スプィニャ」の創設者は、ブロニスワフ、ユゼフのほか、アルフォンス・マフヴィチ、アウグスティン・ヴルブレフスキ、ブロニスワフ・プシブィルスキ、カジミェシュ・ホジコ、ジグムント・コヴァレフスキ、ヴァツワフ・ツィヴィンスキ、ヴワディスワフ・シュヴェングルベル、パヴェウ・クレチコフスキ他数名である。ロシア人の仲間はグループのメンバーとして認められず、排斥された。

メンバーは密かに集まり、禁止されているポーランド文学や、哲学者、ヨーロッパの思想家の著作を読み、それをもとに議論を重ねた。彼らはポーランド三大吟遊詩人や、ヴワディスワフ・シロコムラ、ヴィンツェンティ・ポルといったロマン派の作品だけでなく、最近の小説『火と刀と』や『大洪水』を楽しんで読み、リトアニアとサモギティアの蜂起の話を声を出して読み、アガトン・ギラーの『馬車によるシベリアへの囚人の旅』に親しんだ。同時に、彼らはチャールズ・ダーウィンやアウグスト・コントの著作のような、より難解な読み物も回覧した。またロシア語のもの、ワルシャワでプロレタリアート党が印刷したもの双方の、地下出版の社会主義雑誌も入手した。

スプィニャのメンバーの写真、左からヴワディスワフ・シュヴェングルベン、ヴァツワフ・ブシュ、ユゼフ・ピウスツキ、ブロニスワフ・ピウスツキ、ワルシャワ国立博物館のコレクションより。

スプィニャの図書館は、バクシュタ通りにあるピウスツキ兄弟のアパートに置かれていた。これはヴィトルド・プシェガリンスキの蔵書をもとに作られた。社会的、愛国的な内容の図書と雑誌がワルシャワやサンクト・ペテルブルクから持ち込まれた。 回覧されたすべての出版物の25頁目には「B」の文字があり、それはブロニスワフが本の回覧を管理し、非公式に読者の共同体の議長を務めていることを示していた。新著の購入資金は、ポーランド語によるパフォーマンス(いわゆる「生きた絵画」)を組織したり、チケット制のダンスパーティーを企画するなどの巧妙な方法で調達した。

ユゼフ・ピウスツキもこれに関わっていた。彼はスプィニャの代表団を代表して、オペラ歌手マルセリナ・センブリチ=コハンスカに資金援助を依頼した。この有名なコロラトゥーラ・ソプラノ歌手はヴィリニュスで繰り返しコンサートを開き、1,500ルーブルという相当な報酬をスプィニャに渡してくれた。この金はザヴァツキのポーランド語書店で購入した本代に充てられ、これらの本は、ブロニスワフが主張したように、愛国心を高揚させたことであろう。

月日が経つにつれて、組織はますます堅固になり、活動も活発になっていった。一年間の活動後、このグループには中学校の生徒15名のメンバーが集まった。この組織で最も活動的だったのはブロニスワフで、彼はヴィリニュスに住むさまざまな民族の若者と広く交流していた。彼が後年友人のヴァツワフ・シェロシェフスキに語ったように、ある会合で次のような問いについて白熱した議論が交わされた。

「我々は何者か。ポーランド人か、リトアニア人なのか。この問いに答えるために、我々はリトアニアのポーランド人であり、この国でポーランド性を維持し、他のより弱い民族を傷つけたり抑圧したりせず、自分たちが彼らの庇護者になることが我々の課題である、という決議が採択されました。」1 

バクシュタ通りの家—ピウスツキ家がヴィリニュスで借りた3番目のアパート。ここにヴィリニュスで最初の未公認ポーランド語図書館であるスプィニャ図書館があった。

ブロニスワフの弱小民族への配慮は、サハリンをはじめとする極東地域での長年にわたる流刑生活で特に顕著になった。そこで彼は、それらの共同体の支援者となって、学校を設立し、農業を教え、衛生と友好的な共存の原則を普及させた。

早くもヴィリニュスにいる時に、彼はこの分野でその手腕を遺憾なく発揮した。ユゼフとともに二人はヴィリニュスの職人たちのためにポーランド語学校を設立し、ポーランド文学を読めるようにしたのである。一方、ブロニスワフはリトアニア語を熱心に習得しようとした。

スプィニャの影響は、ますます新しい集団に及んでいった。サンクト・ペテルブルクに遊学していたポーランド人がヴィリニュスに来ると、外国の出版物をこの組織に提供し、それがさまざまなグループで読まれ、一種の〈空飛ぶ大学〉を形成していったのである。

ブロニスワフは、多くの時間を必要とするこれらの任務を、学業だけでなく、社会生活や家庭生活と巧みに両立させた。彼の心の友であり、愛国心を教えてくれた母親は、次第に健康を損な右ようになり、1884年9月に亡くなった。母の死は、ブロニスワフの人生にとってもう一つの不愉快な出来事と重なった。ロシアの秘密警察が、スプィニャの集会の愛国的な雰囲気を懸念して、その発展と若者への愛国主義的な影響を綿密に調査し、集会を禁じたのである。ブロニスワフは学校を退学した。その時彼は、父親が経営するビール製品の貯蔵庫があるサンクト・ペテルブルクで勉学を続けることを決意した。

カロリ&プシュ写真館で撮影されたマルセリーナ・センブリチ=コハンスカの肖像写真。ドレスデン、ロンドン、サンクト・ペテルブルク、ミラノの歌劇場でソリストを務め、マドリード、パリ、ブリュッセル、ベルリン、ケルン、ハンブルク、フランクフルト、ミュンヘン、アムステルダム、ジュネーブ、プラハ、ヴロツワフ、ウィーン、ブダペストで客演した歌手である。
マルセリナ・センブリチ=コハンスカに捧げられた楽譜(パブリック・ドメイン)。彼女の公演のプログラムには、必ずポーランドの歌が含まれていた。彼女は自分がポーランド文化の大使であると感じていた。1900年から1919年にかけて約100回にわたる彼女の録音が残っている。

典拠
イェジ・ホツィウォフスキ『ブロニスワフ・ピウスツキの運命との決闘』ワルシャワ、2018年(ポーランド語)
アントニ・クチンスキ「ブロニスワフ・ピウスツキ(1866–1918) 流刑囚にして極東民族の文化の研究者」『独立と記憶』22/2(50)、7–93頁、2015年(ポーランド語)


M. ブドヌィ「ブロニスワフ・ピウスツキ 生涯と著作」『独立』、1988年、第21巻、184頁。

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