大きな政治
パリのポーランド人の間で
活動
ブロニスワフ・ピウスツキは、スイスに住む亡命政治家たちの環境に広がっている政治的なニュアンスをほとんど理解していなかった。1917年8月15日、彼と同じ環境の人々を含むポーランド国民委員会がローザンヌで結成されると、彼は自分が立派な大義のために力を尽くしていると信じてこれに参加した。その組織はポーランドの政治的願望を代表する唯一の組織として、加盟国から認められ、そのメンバーは後にポーランドを代表してヴェルサイユ条約に調印した。委員会の議長は、ユゼフ・ピウスツキの宿敵ロマン・ドモフスキであった。
1917年11月、ピウスツキはパリに到着し、委員会の事務所で仕事をすることになった。彼はクレーベル街11番地にある委員会の公邸に滞在した。その頃、彼は安定した収入を得ていたので、物質的状況はかなり安定していた。ブロニスワフの仕事は、ポーランドの話題に関わる文献の収集、報告書の作成、宣伝資金の分配など、広い意味での情報に関わるものだった。特に彼は編集業務に多くの時間を割いた。また彼の責務として、フランスの政治家、ジャーナリスト、学者との接触もあった。ピウスツキはパリに滞在しているさまざまなポーランド人たちとも知り合いになった。またザコパネで知り合って、彼に対してとても友好的なザモイスキ家の人たちとも会った。
彼は、リヴィウ大学助教授で法学博士、経済学者のヤン・エマヌエル・ロズヴォドフスキが率いる「政治研究・出版・宣伝部」という名称の学術部門に配属された。この人物は、ヤギェウォ大学教授ヤン・ミハウ・ロズヴァドフスキの弟であり、この兄のおかげで、民族学者はクラクフでアイヌ人に関する著作を出版することができたのである。ヤン・エマヌエルはブロニスワフ同様、戦時中にガリツィアからスイスに逃れ、そこからパリに移住した。ブロニスワフにとって、この経験豊かな政治家であり、大家族の尊敬すべき父親であるヤン・エマヌエルは、上司であるばかりでなく、友人でもあり、私的なことも含めて多くのことを相談できる相手だった。
オッソリネウム研究所に保管されているヤン・ロズヴァドフスキの草稿には、ピウスツキが委員会の責任者として彼に送ったか、手交した最後の手紙、メモ、スケッチなどが含まれている。これらのものは、ブロニスワフ・ピウスツキの死の状況を幾分明らかにしてくれる。これらはピウスツキの健康状態に異変が起きていたことをうかがわせる。彼の気分は過度の幸福感から長期にわたる無気力まで変動した。ピウスツキが多くの決定事項を知らされていなかったことも、これらの手紙からうかがい知ることができる。新しい任務を次々と与えられても、彼は常に実際にその仕事に参加する訳ではなかった。委員会の指導部が、その行動のいくつかに信憑性を持たせるためにピウスツキの名前を使うことがあったという事実は、彼にそれらの行動に対する責任を感じさせるに十分であった。かくして、1918年3月、ピウスツキの名前は、総合委員会と、旅券と法定後見人や捕虜と抑留者双方を管掌するポーランド民政局の候補者の中に登場することになった。しかし、総合委員会は1918年5月8日に活動を開始したものの、彼は実際には委員会の業務に参加してはいない。
ブロニスワフ・ピウスツキは、ポーランド人亡命者の間で起こる数々の諍いを目の当たりにした。彼は対立する党派の和解を図り、そのための好条件を整えて、民族の融和を呼びかけた。ピウスツキはフランスと新たに独立するポーランドの同盟を熱烈に支持し、このような政治協定の意義を強く信じていた。彼は、「同盟国にポーランドとの利害関係、ポーランドの歴史、民族学、文化を知らせる」ような、ポーランドとフランス共同の出版社を設立する構想を支持した。残念ながら、この構想は1918年5月初旬に浮上したが、これはピウスツキの健康状態の悪化と、急速に展開する政治的事件によって引き起こされた幻滅の時期であり、構想は実現には至らなかった。同時に彼は、15世紀初頭のポーランド・リトアニア連合王国を現代に継承するポーランド・リトアニア連合の構想も抱いていたが、東部戦線で繰り広げられる政治情勢は、そのような可能性に対する彼の信念をますます弱めることとなった。同時に彼は、ポーランドがひとたび独立を回復した後の、ポーランドの国民生活の復活に伴う諸問題に懸念を抱いていた。しかし、このような考えを有力な政治集団の人々に絶えず打診しても、なかなか突破口を見いだすことができず、苦い思いを味わった。
彼は、在外ポーランド人の団結と、同胞間の紛争を「寛容連盟」という、公平で名誉ある裁定委員会によって緩和することを夢見ていた。ブロニスワフはこの考えを、パリにいる在外ポーランド人の有力者たちに送った宣言文の中に書き記した。5月3日という象徴的な日付のこの声明は、賛同者を得ることはできなかった。和解も妥協もあり得なかった。パリのポーランド人社会はグループや同人会に分かれており、彼らはしばしばポーランド国民委員会と対立していた。ブロニスワフは、「ピウスツキ」という自分の苗字が単にレッテルに過ぎないのではないかと疑い、それを重荷に感じていた。同時に、ユゼフ・ピウスツキ司令官のパルチザンにとっては、その兄が国民民主党の温床たる地位についたことは、ある種の裏切りと映った。
パリへの旅はピウスツキの孤独感を深めた。死の数日前に彼はヤン・ロズヴァドフスキに、家庭生活の必要性を強く感じていると訴えている。もう一人の亡命運動家、哲学者のヴィンチェンティ・ルトスワフスキはこう書いている。
「パリは彼を苦しめた。喧噪な首都で送った最後の6カ月は彼の生命を縮めた。パリで彼は同胞たちの間のたえざる論争、かげ口、偏見、相互の敵意を目のあたりにした。彼は調和と幸福のために人びとに訴えたが、むだに終わった。彼は個人的な偏見から生じる、互いに相容れない相違をたえず目にした。彼は一人ひとりの人間の最も良きところを認めるという不思議な才を持ち、各人の最も悪しき面をきわだたせたがる傾向を理解できなかった。〔中略〕パリでの健康条件はスイスよりはるかに劣悪だった。小さな屋根裏部屋に住み、病める心臓と危険な脈拍を持ちつつ、やっとの思いでしか昇れない階段が彼を苦しめた。スイスのレマン湖畔のような澄んだ空も太陽もなかったし、心からの友も持たなかった。なぜなら、パリではみな自分のことにかかりきりで、一つの地区から他の地区への文通もはるかにままならなかったからだ。月120フランという仕事の報酬、戦争による物価高では必要な生活条件もみたすことができず、療養に出かけることもためらっていた。健康の悪化は突如おとずれ、予期しない死の原因となった。」
ロズヴァドフスキのメモによると、ザモイスキが5月15日にピウスツキを訪ねて、ピウスツキは完全に病気で、迫害妄想に苦しんでおり、一刻も早く医師の診察を受けるべきだと断言したという。ブロニスワフは、誰かに毒殺されるか、殺されるのではないかと恐れていた。ピウスツキの受診後、薦められた神経科医ユゼフ・バビンスキは、「彼は高血圧で、克服しがたい自殺傾向を抱く憂鬱症である」と書いている。
ブロニスワフ・ピウスツキの悲劇的な死についての現在の見解は、争う余地がない。1918年5月17日、彼はセーヌ川で溺死した。うつ病に伴う自殺であった。12日後、パリ近郊のモンモランシーにあるシャンポー墓地で葬儀が執り行われた。ブロニスワフ・ピウスツキの墓は現在もそこにある。
1919年7月前半、ポーランド国家元首のユゼフ・ピウスツキはヴィエルコポルスカでポズナンとポモジェの総管区の軍事的な問題に対処していた。その時、ピウスツキはポズナン近郊のクルニクにあるザモイスキ家を訪れ、90歳のヤドヴィガ・ザモイスカに自らポーランド復興勲章を授与した。その際、彼女の息子ヴワディスワフ・ザモイスキ伯爵にも、パリで兄ブロニスワフの世話をしてくれたことに対して感謝の意を表した。
典拠
イェジ・ホツィウォフスキ『ブロニワフ・ピウスツキの運命との決闘』ワルシャワ、2018年(ポーランド語)
アントニ・クチンスキ「ブロニワフ・ピウスツキ(1866–1918) 流刑囚にして極東民族の文化の研究者」『独立と記憶』22/2(50)、7–93頁、2015年(ポーランド語)
ブロニスワフ・パシェルブ「ブロニスワフ・ピウスツキ(1866–1918)—大きな政治との出会い—」『政治と社会』、2011年8月(ポーランド語)
沢田和彦『ブロニスワフ・ピウスツキ伝 〈アイヌ王〉と呼ばれたポーランド人』成文社、2019年(日本語)
沢田和彦『ブロニスワフ・ピウスツキ伝 〈アイヌ王〉と呼ばれたポーランド人』スレユヴェク、2021 年(ポーランド語)